つむぐ 被爆者3564人アンケート 森容香さん(85)
子どもたちが笑顔でほおを膨らませている。親子連れや高齢者も、友人知人と会話をしながらスプーンを口に運ぶ。
大阪府枚方市の蹉跎(さだ)生涯学習市民センターで毎月第3水曜日の夕刻に「さだ子ども食堂」が開かれる。寄付された食材をもとに約80人分の食事を準備。子どもは無料、大人は1人500円で利用できる。
7月16日のメニューはハヤシライス、ミネストローネ、はるさめサラダ、フルーツゼリー、リンゴジュースで用意された食事はほとんどなくなった。
森容香(ようこ)さん(85)が、地域の友人らとボランティアで主宰して5年ほどになる。「子どもたちはみんなと一緒に食べるのが楽しいようです。子育てに悩むお母さんが子連れで来て、ママ友ができたと喜んでいます」
活動の原点にあるのは80年前の夏のあの日の夜、口にした食事だ。
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1945年8月6日朝、森さんは5歳だった。広島市の家では母と5人きょうだいが朝食をとっていた。父は徴兵されたままで、どこにいるのかも生死も分からなかった。
突然、「ピカーッ」と閃光(せんこう)がはしり、「ドーン」という衝撃音とともに天井が崩れた。がれきの山の中でしばらく気絶していた。爆心地から約1・8キロ。周りの建物は軒並みつぶれていた。
近くの竹やぶに避難しようと、姉に手を引かれて足元の死体を避けながら歩いた。熱線でむけた皮膚がたれ下がった人々が「水、水」とうめきながらさまよい歩く。あちこちのがれきの山から「助けて、助けて」といううめき声が響く。川には死体が浮かび、流れに顔をつっこんだままの人が折り重なっている。血のにおいがあふれていた。
「生き地獄です。とても言い表すことはできません」
朝日放送テレビの朝の情報番組「おはよう朝日です」の8月13日(水)の放送でも、岩本計介アナウンサーによるインタビューなどで森さんが紹介される予定です。
母子6人で県北部にある父の実家を目指して歩いた。途中で日が暮れ、見知らぬ他人の家で寝食の世話になることになった。
森さんは夕飯に重湯をいただ…