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連載:済州に捧げる歌 加藤登紀子さん 戦後80年の旅【3】

 済州島への初めての旅を控えた今年3月、加藤登紀子さんは母校の東京都立駒場高校に招かれ、在校生や保護者らを前に講演会を開いた。戦後80年を迎え、大陸から引き揚げた戦争体験世代としての思いを語った。

 「1943年に私は今の中国東北部、満州で生まれました。父が戦地に行き、母と兄と姉と終戦を迎えた。戦場だった大陸で私たちは放り出されたんです。難民になりました。だけど奇跡と言っていいかも知れない。1年後に私たちは引き揚げて来ることができた。でも、日本に引き揚げても帰って行けるふるさとがない人もいたんです」

 高校時代、父親が戦死したという同級生が複数いた。60年6月、高校2年生だった登紀子さんは放送部の仲間と国会前に向かった。日米新安全保障条約に反対する「安保反対」のデモだった。その日の夜、国会構内に突入したデモ隊と警察の機動隊が衝突、東大生の樺(かんば)美智子さんが亡くなったことを知り、樺さんを悼む葬列にも花を抱えて参加した。

 「日本の憲法を軍備が持てるように変えようという動きがあったんです。それでも65年もね、それをやらずにこられたということはすごく幸いなことだと思います。高校生の時に放送部のメンバーで国会前にデモに行った。高校時代のすごく大きな思い出です」

写真・図版
母校の都立駒場高での講演で生徒たちに近づいて語りかける加藤登紀子さん=2025年3月7日、東京都目黒区、中野晃撮影

 登紀子さんは今を「人生四幕目」と呼んでいる。旧満州のハルビンで生まれて引き揚げ、多感な時代に安保反対のデモに参加し、樺美智子さんへの憧れもあって入った東大在学中に歌手デビューを果たした。ここまでが人生の「一幕目」という。

 学生運動のリーダーだった藤本敏夫さんが獄中にいた時に結婚し、3人の娘に恵まれ、子育てしながら歌手の仕事をやり抜いた「二幕目」。「三幕目」では父、夫、母と肉親の死を見送り、その人生を受けとめた。

 2018年の年末、生まれ故…

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