524人が乗った日本航空のジャンボ機が群馬県の山中に墜落した翌朝、1985年8月13日午前8時48分。救助のため、出動命令が下った陸上自衛隊「第1空挺(くうてい)団」の降下が始まった。
12人の作業班のトップ、当時26歳だった岡部俊哉さん(66)は、ヘリコプターからロープをつたい、御巣鷹の尾根へ降り立った。
ブーツの裏に、グニャリとした感触が伝わってきた。
「見るのが怖かった」。
足元には、ちぎれた体の一部があった。
足場の悪い急斜面でも垂直降下できる空挺団では、現地本部と5個の作業班が編成され、総勢73人で救助にあたっていた。
急斜面を登り、生存者を捜した。滑り落ちないようにつかんだ木は、血と肉片で真っ赤に染まり、周辺には死臭が漂う。
「地獄ですよ。こんな悲惨な状況で生存者がいるのか」
厳しい訓練にも耐えてきたが、自衛官の仕事を選んだことを悔いるほどの現場だった。
捜索開始からしばらくして、無線から知らせがあった。
「生存者発見!」
信じられない思いで向かうと、航空機のトイレのドアなどを担架の代わりにして、運ばれていた。
生存者4人の中に、当時12歳だった中学1年の女性もいた。「がんばれよぉ」と声を掛けると、「うん、うん」とうなずいていた。
同じ班には、能力が抜群で仲間内から「ミスター空挺」と呼ばれた作間優一さんがいた。
岡部さんは迷わず、言った。「頼む」
作間さんは女性を両手で抱きかかえ、両足でも挟む形でヘリまでつり上げた。
記事の後半では、日航ジャンボ機の墜落現場で活動する自衛隊員を記録した貴重な動画を掲載しています。
救出が終わると、次の任務は…