Smiley face

 サッカー場ほどの広さの焼け跡には、真っ黒なトタン屋根や衣類、支給された食事のゴミが散乱していた。焦げたにおいが残るなか、女性や子どもがしゃがんで何かを拾い集めている。

 「家族みんなで何度も泣きました」

 ニョーニョーさん(38)が夫を思い出すように、遠くを見つめながら言った。あの時、何があったのか。

【連載】重なる「災」 ミャンマー地震1カ月

2025年3月28日、ミャンマーはマグニチュード7.7の揺れに襲われました。4年前のクーデター、その後の内戦――。国が疲弊する中で起きた地震から1カ月が経ち、人々は何を思うのか。深い絶望と、希望を伝えます。

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ミャンマー中部で起きた地震後の火災で、焼け焦げたマンダレーのスラム街。現在は周囲に竹やシートでできた被災者のキャンプができていた=2025年4月23日、笠原真撮影

 3月28日、午後0時50分。ミャンマー第2の都市マンダレーをマグニチュード7・7の地震が襲った。

 マンダレーのセインバン地区には、竹や木で造られた500軒ほどの住宅が密集するスラム街が広がっていた。貧困の広がりとともに人口は増え、2千人以上が暮らしていたという。

 揺れによる直接的な被害は少なかったが、昼食時だったため、地震から間もなく火が上がった。

 ニョーニョーさんは幼い息子(6)を連れて近くの僧院を訪れており、無事だった。すぐ、夫ボーサンさん(55)のことが頭に浮かんだ。脳卒中を患い体が不自由で、家に残してきていたからだ。

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ミャンマー中部で起きた地震後の火災で、焼け焦げたマンダレーのスラム街。子どもたちが遊んだり、お金になりそうな物を拾ったりしていた=2025年4月23日、マンダレー、笠原真撮影

 大勢が逃げ出してくるなか、「気づいた誰かが夫を助けてくれているはず」と信じていた。

 2日後、近所に住んでいた男性から言われた。「あなたの夫は逃げ遅れた」。男性はボーサンさんが逃げ惑う姿を見たが、自分も逃げるのに必死で「助けることができなかった」と話した。

 スラム街は全体が焼失し、4人が死亡。全国で確認された3700人以上の死者の多くは建物の下敷きになるなどしたとみられるが、このスラム街の犠牲者は全員が火災によるものだった。

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