窓の外の国会議事堂を見る亀井静香氏=2025年8月4日、東京都千代田区、上田幸一撮影

 広島に原爆が投下された1945年8月6日、その様子を目撃していた自民党元政調会長の亀井静香氏(88)。政治家時代には、東日本大震災と原爆とを重ね合わせ、原発反対を訴えた。「核は絶対に使っちゃいかん」と語気を強め、現在の国際情勢に核兵器が使用される危機感を抱く。

 ――広島の原爆当時の記憶は。

 よく覚えている。当時は8歳で、広島の山内北村(現・庄原市)の国民学校3年だった。広島市内から80キロくらい離れていて、小高い丘のような場所にある学校にいた。

 当時は校庭に食料用のイモを植えていて、俺は朝からそのイモ畑で作業をしてた。そしたら、いきなりピカッと光って、地響きみたいな、ずどーんと大きな音がした。そしたら、山の向こう側から、もくもくもくと、キノコ雲があがった。でも、その雲がなんなのか、原爆なんて言葉も、当時は全くわからない。

 間もなくすると、俺の村にも、広島市内からたくさんの人たちが逃げてきた。原爆で全身が焼けた人たちだった。あの光景は忘れられない。

 ――そのとき家族は。

 三次高等女学校(広島県三次市)に姉の知恵子が通っていた。姉は、救援隊として被爆者の救護に広島に行った。原爆投下後に爆心地付近に入って残留放射線に侵された「入市被爆者」だ。

 姉は割と有名な俳人でね、こんな句を残している。

 「白血球 測る晩夏の 渇きかな」

 白血球の数値が不安定で、57歳で死んじまった。若かった。原爆は絶対使っちゃいけないよ。

 戦後80年の今年、戦前生まれの現職国会議員は約1%になりました。戦争を経験した政治家たちが次世代に伝えたいこととは何でしょうか。その証言を聞きます。

  • 【連載2回目はこちら】戦死した父の無念を思う 古賀誠氏、「今の政治家」の歴史認識を危惧

街中のビルには人影が残ったまま

 ――ほかにはどんな記憶が。

 原爆から4年後、広島市にあ…

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