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 観光名所として人気の京都・清水寺。仁王門横の石段には、午前中からアジア圏の旅行者や、韓国からの修学旅行生などが大勢訪れ、三重塔や西門を背景に記念写真を撮って楽しんでいた。

 1941年9月28日の朝日新聞京都版には、この石段を登る傷痍(しょうい)軍人たちの写真が掲載されている。「聖域・響く鉄脚(てっきゃく) 京の義足勇士」との勇ましい見出しで、東京の陸軍病院で療養していた101人が、奈良や京都など関西各地を訪問したことを紹介している。帽子におそろいの服を着た後ろ姿のなかに、金属製の義足「鉄脚」が目立つ。

 訪れた人に感想を聞いてみた。写真をよく撮りに来るという74歳の男性は「ようこんな所まで義足であがって来たな」。千葉から修学旅行で訪れていた中学生たちに見せると、「ウオー」と驚いた。中学3年の飯倉葵(あおい)さん(14)は、太平洋戦争について勉強したばかりだといい、「写真を見ると過去の戦争の現実味が増す。今の暮らしは当たり前じゃないと実感する」と話した。

 戦地で負傷したり病気になったりした傷痍軍人の歴史を伝える東京都千代田区のしょうけい館(戦傷病者史料館)によると、傷痍軍人は、戦時中は国策として恩給や義肢義足、職業訓練、結婚支援など手厚くサポートされた。そうすることで、傷ついても前向きに生きるイメージを国民に持たせ、戦争への機運醸成にも一役買っていた。

 ところが、敗戦後に連合軍総司令部(GHQ)が日本軍を解体すると、大半の支援は停止された。困窮極まり、駅や街角で義肢を見せて白衣姿で立ち、寄付を求める人が増えた。51年のサンフランシスコ講和条約調印後、日本傷痍軍人会が発足して恩給も復活したが、恩給がない時期に借金を重ね、厳しい生活を送る人も多かったという。

 年月の経過とともに戦傷病者の存在は薄れ、最も多い時で約35万人いた日本傷痍軍人会も高齢化が進み、13年の解散時には約5千人まで減っていた。

 太平洋戦争の終結から80年。朝日新聞に残る、戦前から戦後の写真の撮影地を訪ね、現代の風景の中で戦火の残像を探しました。戦火の時代を生きた人々と現代の人々のつながりを表現するため、当時と現在、2枚の写真を合成し紹介します。
 記事の後半で、現在の写真の中に当時の風景が浮かび上がる動画をご覧いただけます。

敗戦後、街角で寄付求めた「義足勇士」

 しょうけい館には、戦傷病者…

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