資料を確認しながら家族が隣り合うように遺影を入れ替える学芸員たち=2020年8月19日、那覇市の対馬丸記念館

 沖縄戦前夜に起きた対馬丸事件70年の年の証言です。上・中・下の3回に分けて再配信します。

【2014年8月23日朝刊(西部本社版)】

 1944年8月22日、米潜水艦に撃沈された対馬丸に引率役として乗っていた糸数裕子さん(89)。教師になったのは、沖縄師範学校女子部を卒業した44年春のこと。のちに沖縄戦に動員されたひめゆり学徒隊の少し先輩になる。

 赴任した那覇国民学校で、いまの中学生にあたる女子生徒50人を受けもった。初めての学級担任とあって張り切っていた。

 疎開を指示されたのは7月半ば、終業式の直前だった。

 《校長が職員を集め、生徒をできるだけたくさん疎開させなさい、と言うんです。先生方の踏ん張り一つですと。私は若かったですからたくさん生徒を誘いましたよ。》

  • 【前回はこちら】「せんせいー」助けを呼ぶ声 海に沈んだ疎開船

 家庭訪問に回り、生徒や保護者に疎開を勧めた。

 《学級担任が行くと言ったら生徒は喜びますよね。不安な親は行かせられないと思っていても、先生が行くなら行きたいと生徒が親を説得する。学校が集団で移るだけですよ、そんな言い方をして抵抗を感じさせないようにしました。》

 当時、九州と沖縄を結ぶ航路で民間船が何隻も沈められていたことは、公然の秘密だった。

 沖縄に残れば空襲にあい、戦闘に巻き込まれるかもしれない。しかし、疎開すれば海でやられる――。学校でも地域でも、焦燥感が広まっていた。

 《残るのも怖い、行くのも怖い。ただ、わたしは悲壮な感じはなかったです。動員で飛行場造りをしていましたし、これから飛行機がたくさん来るんだから日本は勝つんだ、と。子どもたちを助けるんだ、という気持ちもありました。》

 糸数さんのがんばりもあり、クラスから13人が疎開を決め、対馬丸に乗った。そして、13人全員が亡くなった。

     ◇

 対馬丸が海に沈められ、イカダでまる一日漂流した8月23日。夜になって糸数さんは漁船に助けられた。運ばれたのは、鹿児島県・薩摩半島の港だった。

 《見物人がたくさんいるのを見て急に感情が動き出したんです。恥ずかしい、と。顔を見られたくなくて恥ずかしくて、怖かった。》

 自責の念。このときの見物人たちの目は戦後、何度も夢に現れた。

 沖縄に引き揚げたのは、終戦後の46年10月だ。待っていたのは、2年2カ月ぶりに再会した父の予想もしない言葉だった。

「子どもかえせ」家に押しかけてきた親たち

【2014年8月24日朝刊(西部本社版)】

 砲弾が無数に降ったふるさとは、地形がかわるほど荒廃していた。対馬丸事件で生き残った引率教師の糸数裕子さん(89)は、疎開先の九州から1946年10月、沖縄に引き揚げた。

 《父がいる首里の家に向かい…

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