太平洋戦争末期、政府は米軍の本土爆撃に備えて、都市部の国民学校初等科(現在の小学校)の児童を地方や郊外に移住させる「学童疎開」を行った。
朝日新聞に残る1944年10月1日撮影とされる写真は、そんな疎開の一コマを捉えている。お寺の本堂で、親子が満面の笑みで対面している。お土産のようなものを広げる様子や、親が連れてきたとみられる幼児の姿も見られる。
翌2日の朝日新聞は、別のコマとみられる写真を掲載し、対面の様子を紹介している。記事によると、写真が撮られたのは千葉県馬来田村(現在の木更津市)にある「妙泉寺」。写っているのは東京都本所区(現在の墨田区)にあった日進国民学校から疎開した児童だという。
3年生と5年生92人のうち、25人の親たちがくじで選ばれ、寺を訪問した。親子が久々の対面を喜ぶ一方で、面会がかなわなかった子どもが頭から布団をかぶって出てこない様子も書かれている。
太平洋戦争の終結から80年。朝日新聞に残る、戦前から戦後の写真の撮影地を訪ね、現代の風景の中で戦火の残像を探しました。戦火の時代を生きた人々と現代の人々のつながりを表現するため、当時と現在、2枚の写真を合成し紹介します。
記事の後半で、現在の写真の中に当時の風景が浮かび上がる動画をご覧いただけます。
「生のドングリや、畑のダイコン」空腹の記憶が今も
妙泉寺は現存し、写真が撮られた本堂も大きく変わることなく残っている。37代目住職の武長英俊さん(75)によると、当時は祖父の騰雲さんが住職を務めていた。
疎開の様子についてはあまり聞いたことがないが、戦後、当時疎開をしていたという男性が寺を訪れたことがあり、寺の火鉢を囲んで遊んだことなどを話していったという。
東京の下町から疎開した児童には、過酷な運命が待っていた。45年3月10日未明に東京大空襲があり、卒業や進学のため自宅に戻っていて被災する児童や、疎開先で無事でも、家族を失い孤児になる児童もいた。
すみだ郷土文化資料館学芸員…