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頭を下げ、犠牲者に祈る生存者の糸数裕子さんら参列者たち=2014年8月22日、那覇市

 沖縄戦前夜に起きた対馬丸事件70年の年の証言です。上・中・下の3回に分けて再配信します。

【2014年8月25日朝刊(西部本社版)】

 日用品を買い求める人たちが行き交っていた。沖縄に引き揚げて数年後の1948年ごろ。中学校に勤め始めていた糸数裕子さん(89)は、運動会で使うはちまきを買いに那覇市中心部の市場を歩いていた。

 「先生!」。突然呼び止められた。対馬丸に乗る4カ月前、初めて受け持ったクラスで、乗船しなかった教え子だった。

  • 【前回はこちら】疎開させた教え子全員死亡 父「人前で言うな」

 《女子生徒が抱きついてきて。○○さんも、○○くんも亡くなった。先生、助かってよかったね、と言うんです。》

 糸数さんは身の毛がよだつのを感じた。

 《きょうは法要できているからとウソをついて。ごめんね、またいつか話そうね、ごめんね、とすぐに別れたんです。》

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頭に大きな風呂敷包みを載せた女性がほほえんでいる。那覇市のマチグヮー(市場)=1957年11月ごろ

 引き揚げ直後、父に告げられた言葉が体に染みこんでいた。「子どもをかえせと保護者から責められた」「人前で、生き残ったと言ってはいけない」

 《生きていることの苦しみでした。あの通りに行くと、また誰かが飛び出してきそうで。私はあの道を通らなくなった。ものも言わなくなったんです。》

 糸数さんは沈黙した。子どもにも遺族にも会いませんように。そう願って生きた。毎年の慰霊祭には欠かさず参列したが、遺族を装い、隅の方で顔を伏せた。裏道から入り、裏道から帰った。

      ◇

 糸数さんと同じ引率教師や世話役は、少なくとも30人が対馬丸に乗った。戦後、生き残ったことがわかった教師は5人。うち3人は他界した。亡くなった男性教師の1人は教え子と母娘を失い、戦後、教師をやめた。

 遺族にあわせる顔がないと、ある女性は戦後、ふるさとに帰らなかった。2011年に亡くなる直前、対馬丸記念会の聞き取りに答えた。「死ぬわけにはいかず、生きていかなくてはいけないけれど、せめてだれにも知られずにひっそりと、あの地平線の下で生きていたい、という気持ちでした」

 大正12年生まれの女性もまた、沖縄に帰れなかった。いまも本土でひっそりと生きている。

 70年が経ったいま、引率者として公に体験を語ることができるのは糸数さんだけだ。沈黙を破ったのは1977年、海上慰霊祭のときだった。

「あなたを恨むことはない」声をかけられ

【2014年8月26日朝刊(西部本社版)】

 生き残った体験は話さない。その長い沈黙を糸数裕子さん(89)が破ったのは三十三回忌の翌年。1977年、対馬丸が沈んだ鹿児島県沖の海上慰霊祭の場だった。

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対馬丸洋上慰霊式で沈没海域に花を投げる遺族ら=1998年3月7日、鹿児島県・トカラ列島の悪石島沖で

 「あなたを恨むことはない…

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