沖縄戦前夜に起きた対馬丸事件70年の年の証言です。上・中・下の3回に分けて再配信します。
【2014年8月25日朝刊(西部本社版)】
日用品を買い求める人たちが行き交っていた。沖縄に引き揚げて数年後の1948年ごろ。中学校に勤め始めていた糸数裕子さん(89)は、運動会で使うはちまきを買いに那覇市中心部の市場を歩いていた。
「先生!」。突然呼び止められた。対馬丸に乗る4カ月前、初めて受け持ったクラスで、乗船しなかった教え子だった。
- 【前回はこちら】疎開させた教え子全員死亡 父「人前で言うな」
《女子生徒が抱きついてきて。○○さんも、○○くんも亡くなった。先生、助かってよかったね、と言うんです。》
糸数さんは身の毛がよだつのを感じた。
《きょうは法要できているからとウソをついて。ごめんね、またいつか話そうね、ごめんね、とすぐに別れたんです。》
引き揚げ直後、父に告げられた言葉が体に染みこんでいた。「子どもをかえせと保護者から責められた」「人前で、生き残ったと言ってはいけない」
《生きていることの苦しみでした。あの通りに行くと、また誰かが飛び出してきそうで。私はあの道を通らなくなった。ものも言わなくなったんです。》
糸数さんは沈黙した。子どもにも遺族にも会いませんように。そう願って生きた。毎年の慰霊祭には欠かさず参列したが、遺族を装い、隅の方で顔を伏せた。裏道から入り、裏道から帰った。
◇
糸数さんと同じ引率教師や世話役は、少なくとも30人が対馬丸に乗った。戦後、生き残ったことがわかった教師は5人。うち3人は他界した。亡くなった男性教師の1人は教え子と母娘を失い、戦後、教師をやめた。
遺族にあわせる顔がないと、ある女性は戦後、ふるさとに帰らなかった。2011年に亡くなる直前、対馬丸記念会の聞き取りに答えた。「死ぬわけにはいかず、生きていかなくてはいけないけれど、せめてだれにも知られずにひっそりと、あの地平線の下で生きていたい、という気持ちでした」
大正12年生まれの女性もまた、沖縄に帰れなかった。いまも本土でひっそりと生きている。
70年が経ったいま、引率者として公に体験を語ることができるのは糸数さんだけだ。沈黙を破ったのは1977年、海上慰霊祭のときだった。
「あなたを恨むことはない」声をかけられ
【2014年8月26日朝刊(西部本社版)】
生き残った体験は話さない。その長い沈黙を糸数裕子さん(89)が破ったのは三十三回忌の翌年。1977年、対馬丸が沈んだ鹿児島県沖の海上慰霊祭の場だった。
「あなたを恨むことはない…