20世紀の終わりにお届けした記事から。
【1999年1月5日夕刊(東京本社版)】
日本人に生まれるのではない。日本人にならなくてはいけない。――そんな宿命を負った人びとがいた。
◇
敗戦から八年後、一九五三年の暮れに封切られた一本の映画が、太平洋戦争きっての悲話を全国に知らしめた。
今井正監督、「ひめゆりの塔」である。
観客動員は六百万人を超え、傾きかけていた映画会社を立ち直らせたという逸話を残した。
一方で事実と異なる脚色が、ひめゆり学徒隊の生存者たちに、いまに至る心のしこりを残した。
たとえば、撤退の途中に畑でキャベツを見つけてバレーボールに興じる。これはうそ。負傷兵の看護の合間に、洗面器をざるに見立てて沖縄民謡を踊る。ありそうな光景だが、これも作り話である。
あげればきりはない。
そんな中、死を覚悟した女生徒たちの姿に、唱歌「故郷(ふるさと)」の合唱がかぶさる場面がある。取って付けたような、うそくさいシーンである。
だが、これは事実だった。
「故郷」は、沖縄戦が最終局面を迎えていた四五年六月二十日の夜、沖縄島の南の端の海岸で、追いつめられた四人の女生徒によって歌われていた。
その夜の様子を語れるのは、いまでは宮城喜久子(みやぎきくこ)さん(七〇)しかいない。一緒に声を合わせた三人は翌日、米兵の銃撃や、同行していた教師が爆発させた手りゅう弾のために血に染まって死んだ。
場所は、荒崎海岸だという。
隆起珊瑚礁(さんごしょう)が太平洋に落ち込むその磯(いそ)は、アメリカ側が「ありったけの地獄を集めた」と形容した沖縄戦の、南の果てである。
沖縄戦に際して日本軍は、一木一草を戦力と化して、寸尺の地のある限り戦うよう住民を鼓舞した。けれども、猛烈な砲撃や戦車に追われ追われて女生徒たちが行き詰まった荒磯の突端には、もはや一木も、寸土さえない。
そこは、日本の軍国主義と精神主義のどん詰まりでもあった。
その夜、砲撃はやんでいた。絶壁のへりに座って、だれが歌い出したのかは記憶にない。泣きながら喜久子さんは、くしや写真の入った大事なかばんを暗い海に投げ込んでいた。
なぜ「故郷」だったのか。
古くから独自の文化をはぐくんできた沖縄は、だれもが知る歌舞の宝庫である。幼いころから耳にし、口ずさんできた地元の歌が、たくさんあったはずなのに――。
そう問うと、喜久子さんは困った顔をした。
「故郷」の作詞者は信州の出身である。春夏秋冬の織りなす、日本の典型的な精神風土から生まれたこの歌が、亜熱帯の島の空気にいまひとつなじまないことは、喜久子さんも感じていた。
沈黙のあとで彼女は言った。
「沖縄の歌は、ひとつも知ら…