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つむぐ 被爆者3564人アンケート 平良正男さん(81)

写真・図版
平良正男さん=2025年5月22日午後2時12分、那覇市、日吉健吾撮影

 「戦争の記憶と言ったって、私には何も分からない。でも、この写真を通して話していきたい」

 那覇市内を一望できる高台に建つ自宅で、平良正男さん(81)は語った。目の前には、80年ほど前に撮った家族の白黒写真が並ぶ。

 広島県呉市で生まれた。1歳10カ月の時、原爆投下直後に母・ツルさんに連れられて爆心地から約2キロの広島市松原町(現・広島市南区松原町)に入り、被爆した。父・恵正さんは当時、日本郵船の海軍特設病院船「朝日丸」の料理長。北九州市の門司港にあった会社にいたが、広島への原爆投下を知り、家族のもとまで歩いて駆けつけたという。

【3社合同企画】つむぐ 被爆者3564人アンケート

原爆投下から80年。朝日新聞、中国新聞、長崎新聞の3社は合同でアンケートを行いました。被爆者たちが私たちへ託した言葉をみる。

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 自身は幼かったこともあり、「当時の記憶はほとんどない」。終戦を迎え、家族で恵正さんの古里である沖縄の宮古島に引き揚げた。ツルさんが平良さんを抱えて門司港までの道のりを歩いたことは知らされていたが、広島市内の惨状などを聞かされることはなかった。

 そこからは貧困との闘いだった。通っていた中学校には60人近くの同級生がいたが、高校に進んだのは6人。平良さんも家計を助けるために働きに出た。「ただ生きるために必死に働いた」

 実家のサトウキビ畑を手伝いながら、町まで2時間の道を歩いて行商をした。少しでもお金を稼ぐためにと、カツオ漁船に乗り、追い込み漁もやった。真冬の海にモリを片手に何度も潜り、「寒さで何度も心が折れかかったけど、生活のために続けるしかなかった」

 そんな中で、気がかりだったことがある。今回のアンケートで被爆後の80年でつらかったことを聞かれ、選択肢の中から「差別や偏見」を選んだ平良さん。「人に広島で被爆したということを知られたくなかった」

 幼い頃から原爆報道を見ながら、自身や家族が差別を受けることを恐れた。被爆者健康手帳を紛失しても、「必要ない」と長年、再取得しなかった。息子や娘には自身が被爆者と伝えたが、平和活動とは距離を置いてきた。

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