連載「1995年からの現在知」

 1995年1月、作家の雨宮処凛さん(49)は20歳になった。フリーターで困窮し、自殺未遂を繰り返す日常のなかで、オウム真理教を「まぶしく感じていた」。困窮者を助けるイメージもあった左翼には漠然と反感があり、右翼団体にも入った。それはなぜか。

 作家になった後、この20年弱は貧困支援の現場を見てきた。闇バイトを含め、犯罪経験のある人と出会うことが増えた。これまでは「前科がつくと、まともに働けなくなる」という危惧が犯罪への歯止めとなっていた人々の心象が、変化しているのではないか、と語る。

戦後半世紀の節目の年は、阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件といった未曽有の出来事が相次ぎました。1995年を起点に、私たちの社会や文化の変容を考えます。

雨宮処凛さん=本人提供

 ――1995年当時、雨宮さんは20歳。どういった状況の中にいましたか?

 日常を地獄のように感じていました。美大に2度落ち、就職もできない中で、フリーターになるわけです。半年も経つと、「もうこれ、絶対抜け出せないな」という感じがしていました。体力的にも他のことはできないくらい働いて、でも賃金は全然生活できるレベルではなくて。まだ親の仕送りがあってなんとか生きていけてたけど、親が死んだらホームレスになるんだろうなって、20歳の段階で思っていました。

 ――景気が後退し、就職が厳しくなってきていた時期ですが、世間のフリーターへの風当たりも依然、厳しかったですか

 バブル崩壊後の就職氷河期によって、就職できずにフリーターが増えたのに、「若者は働く気がない」とか、「フリーターは好きでやっているんだ」みたいな言説が強かった。まったく労働問題、貧困問題としてみられていなかった。非正規労働者ではなく、モラトリアム型フリーター、とか夢追い型フリーターとか、心理学的な分析だけされて……。

 ――そうした自己責任論のような言説に対してはどういった思いでしたか

 それでも出来のいい同世代は就職できてたわけで、すべて自分のせいだと思っていました。バイトを解雇されることもあったけど、使えない人間で対人関係もうまくないからだと思いました。そんな社会で生きていけると思えなくて、リストカットをしたり、オーバードーズをして救急車に運ばれて胃洗浄したり。そういう、自殺未遂のようなことばかりしていました。

 それも全部自分の問題だと思っていたところに、オウム真理教の事件があった。そこで、「戦後日本」を問い返すようなことがワイドショーなんかで言われ始めて、何か自分が生きてきたこの戦後日本というものに、問題があったんじゃないかと思い始めた。それがまさに1995年でした。

買春にブルセラ… 身を守るため右翼団体へ                                                                                     

 ――オウムへのシンパシーも感じていたそうですね

 オウムに入った少し年上の人…

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