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つむぐ 被爆者・井石昭子さん(81)、瀬戸口彌榮さん(85)、記者・小川崇(38)

 私たちは取材班をつくり、3564人から寄せられたアンケートを読み込んだ。長崎で勤務する私(38)は、長崎県内からの回答を中心に担当した。

 これまで取材に応じていただいた方々の回答もたくさんあった。海外で証言を伝える人や、犠牲者をしのぶための植樹を続ける人、毎月9日に座り込みをする人など、それぞれの形で核廃絶のために身を捧げている。

 一方、取材の中では被爆80年を一つの活動の区切りにしたいという声も聞いてきた。長崎県諫早市の井石昭子さん(81)もアンケートに、10年以上学校などで続けてきた語り部活動をやめると記していた。

【動画】証言活動に一区切りをつけた井石昭子さん=小川崇、林敏行撮影

 井石さんの家族は80年前、長崎市の爆心地近くに住んでいた。避難を勧められて山あいに移ったのが8月8日だった。

 翌日、すさまじい音とまぶしい光が走った。姉に背負われ、竹やぶに身を沈めた。その後、家族で爆心地そばの様子を見に行った。住んでいた家は焼けてなくなっていた。よく知っていた近所の親子は黒こげで見つかった。

 講演では、必ず父の記憶も語った。原爆が投下された日、教師だった父は、爆心地から1キロほどの商業学校で防空壕(ごう)を掘る作業をしていた。爆風の勢いで気を失い、目が覚めると、皮膚がはがれ血だらけになった生徒らがたくさんいた。「やられた」「やられた」――。さまよい助けを求める人たちの声が、生涯頭から離れなかったという。

写真・図版
井石昭子さん=長崎県諫早市のカトリック諫早教会、林敏行撮影

 最初に被爆体験を語ったのは、障害がある長男が通う授産施設からの依頼だった。やりがいを感じてきたが、体力が衰え、数年前から体調を崩すようになった。腰痛が悪化し、運転もできない。長男の世話の負担も重くなっている。

 《八十路(やそじ)で体力の…

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