オウム真理教による事件が相次いだ時期に、警察の警備公安部門のトップ、警察庁警備局長を務めた菅沼清高さん(84)が朝日新聞の取材に応じた。事件の捜査にあたった刑事部門とは別の立場から、公安警察はオウムにどう向き合っていたのか、当時を振り返った。

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 警察の刑事部門が一般の事件の捜査を担当するのに対し、警備公安部門は政治性、思想性のある事案やテロを捜査したり、団体を調査したりする。菅沼さんは1980年代から90年代にかけ警察庁の公安担当の課長などを歴任し、92年9月から94年10月まで警備局長を務めた。

 オウムは89年に宗教法人の認証を受け、教団幹部らは90年の総選挙に出馬した。「そのころ、オウムに関する情報は断片的に入ってきたが、『米国が飛行機で来てガスをまいた』などと漫画みたいなことを言っている、おかしな集団という程度の受け止めだった」

オウム真理教について語る菅沼清高・元警察庁警備局長=2024年12月16日午後、奈良市、吉田伸八撮影

 当時、公安警察は宗教団体のなかでは別の団体を第一の警戒対象に位置づけ、オウムはそれに準じるレベルだった。全国の警察の本部長や警備部長らを集めた会議などを通じ、こうした宗教団体の調査を進めるよう指示しており、警視庁公安部を中心にオウムの組織解明にあたっていた。

 だが、オウムは実際には89年11月の坂本堤弁護士一家殺害をはじめとする事件を次々に起こしていた。警察がようやくオウムに本格的に照準を合わせたのは、94年6月の松本サリン事件のあとだった。

 95年3月には地下鉄サリン事件の発生を許した。「オウムは自分たちの国家を実現するため凶悪な手段で政治権力を獲得しようとしたが、あまりに意想外(いそうがい)な集団だった。警察は常識の枠に縛られ、対応しきれなかった」

 教訓として「治安のためにアンテナを広く、十分に張ることの大切さ」を痛感した。いまでも「なぜ、もっと早く手を打てなかったのか」という思いは消えない。

 背景には、憲法で「信教の自…

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