連載「民は主か 長州・山口からの問い」 第6回
「公論」という言葉でよく知られるのは、「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スヘシ」だろう。
1868(慶応4)年、明治改元に先立って新政府が示した基本方針「五箇条の御誓文」の冒頭の一節である。当初の案では公家や大名による会議を想定していたが、長州出身の木戸孝允らが「広ク会議ヲ興シ」に改めた。
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議論に参加するのは公家や大名か、もっと幅広いのか。想定する「公論」像は論者や時代によって異なるけれど、方向性は一致している。
政権中枢にいる大老や老中ら一握りの人が専断する状況を改め、開かれた議論に基づいて決めよ――。そういう声が幕末にわき起こり、明治政府が採用したのである。
東京大学の苅部直教授(60)は、こう語る。
「身分制の解体と、公論、パブリックディスカッションに基づく政治をおこなわなければならないという考えはセットになっていました。やがては議会を開くことを、明治国家は当初から目標にしていたのです」
身分が低ければ、天下国家を論ずることも許されなかった身分制社会。その解体は、議会政治の時代への序章となった。
「革命」の名に値する巨大な変革だった
民主主義とは何か。日本で民主主義がかたちづくられていった歴史を振り返りながら、いまをみつめる連載です。筆者は、朝日新聞山口総局長の松下秀雄。出発点は、幕末・明治維新期から。
そう考えていくと、「明治維新」という呼び方がほんとうにふさわしいのか、疑問がわく。
武士という支配階級がなくな…