先の大戦中、戦闘機を造るため台湾から日本へやってきた「少年工」たちがいた。戦後80年。いまや東北を訪れるインバウンドの約半数が台湾からの宿泊客が占めるようになるなど、日台交流は盛んだ。その土台にもなった、台湾少年工たちの80年を追う。
連載「台湾少年工の戦後」#4 終戦で置き去りに
「終戦後、台湾から来ていた少年工たちは突然、『日本人』から『中華民国人』になり、日本に置き去りにされました。その混乱の時期に彼らをまとめたのが、李雪峰さんでした」
台湾の元少年工との交流を続ける「高座日台交流の会」の会長、石川公弘さん(91)は、そう振り返る。台北市の商工専修学校に在学中、少年工として日本に渡った李さんは当時17歳。剣道2段の腕前で、十代前半の少年工も多い中、寮長を任されていた。
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その後、神奈川県の高座海軍工廠(こうしょう)から名古屋の軍需工場に派遣されたが、偶然、歯科医院で治療を受けている間に工場が空襲に遭い、部下の少年工25人を失った。石川さんは「李さんは戦後もずっと『彼らと一緒に死んでやれなかった』と悔やんでいた」と回顧する。
李さんはその後、兵庫県の西…