連載「100年をたどる旅~未来のための近現代史」憲法編④
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ドイツを手本とした大日本帝国憲法は天皇の統治権を広く認める一方、権利保障や権力分立など、自由主義や民主主義の流れもくんだ憲法でした。後者を重視する憲法学者・美濃部達吉の唱えた「天皇機関説」は当時の主流的な憲法解釈でしたが、1935年、軍部や国粋主義者たちからの激しい攻撃にさらされることになります。
天皇機関説が貴族院で陸軍出身の議員、菊池武夫から突如攻撃を浴びた1週間後、貴族院議員でもあった美濃部達吉は、貴族院本会議で反論した。「(天皇の大権は)万能無制限の権力ではなく、憲法の条規によって行われる権能だ」。さらに菊池武夫の発言は「断片的な片言隻句」をとらえた誹謗(ひぼう)中傷であり、私の著書全体を読んでから批評すべきだと批判した。
これが火に油を注いだ。国粋主義者などが、機関説は「国体に反する」などと排撃キャンペーンを展開。軍部や在郷軍人、政友会もこの動きに加わり、結果、美濃部の著作は発禁処分となり、美濃部は公職から追放された。
政府は当初、学問上の問題は政治から切り離すという姿勢をとっていた。しかし、事態の収束のために軍部の要求を入れながら、当時の岡田啓介内閣は、「国体明徴に関する政府声明」を発し、1935年8月3日と10月15日の2度にわたって天皇機関説は「国体の本義に反する」とした。2回目の声明では、機関説は取り除かれなければならないと、1回目よりも踏み込んだ。
何が正しく、何が間違いかは時の権力が決める――。大日本帝国憲法に規定はなくとも、「慣習」として定着しつつあった「学問の自由」と「大学の自治」の息の根が、止まった。天皇機関説事件は時代の画期となり、無謀な戦争への道を舗装したのだった。
注目すべきは、攻撃された美濃部を公に擁護する声がほとんど上がらなかったことだ。
「憲政の神様」と称される尾崎行雄はエッセーにこう書く。「(美濃部)氏宅に未知の人々からたくさん激励の手紙が来たそうだが、裏面ではカレコレ言っても、公然と立って何も言える人間がないことは、いかにも残念だ」。ジャーナリストの清沢洌は日記に「美濃部博士に対し右翼は直ちに結成するが、かれ(美濃部)の意見に賛成する者は少しもバックしない」と書き留めた。
美濃部の弟子で、東京大学で…