チャールズ・ブロー
作家ファニー・フラッグの小説「フライド・グリーン・トマト」で、登場人物のエブリン・カウチがニニー・スレッドグッドにこのように言う場面がある。「私は年寄りになるには若すぎるし、若くいるには年をとりすぎている。どこにもなじめない」
私はこのセリフの、自分が場違いなところにいるという感覚についてよく考える。特に若さを過剰に称賛し、老いを敵視するように教える文化の中では。
どのように年をとるべきか、どの程度老いと闘い、どの程度受け入れるのが正しいバランスなのか、誰も教えてくれない。体形が崩れ、髪が白くなったときにどう感じるべきかや、しわくちゃの肌や、ほほえむと残念に感じてしまうような顔のしわをどう考えればいいのかも、誰も教えてくれない。
詩人のディラン・トマスは「消えゆく光に対し怒れ、怒れ」「老いは一日の終わりに燃え盛り、荒れ狂うべきだ」と私たちに言った。悲しいことに、彼は40歳になる前に亡くなった。
その年齢をはるかに超えた私たちにとっては、怒ることは無駄で、エネルギーの配分を誤っているように感じられる。結局のところ、老いには美しさがある。そして、年をとるということは、私たちの体の見た目や感じ方以上のものだ。私たちを取り巻く世界がどのように前に進み、私たちを引っ張っていくか、ということでもある。
数年前、長年の友人から、父…