能楽師の有松遼一さん=京都市上京区の有斐斎(ゆうひさい)弘道館

 効率と成果がもてはやされる当世にあって、芸や勝負の道には異なる時間感覚や価値観が息づいている。随筆集「舞台のかすみが晴れるころ」で、表に現れぬ訓練や工夫、振る舞いこそが核心だと記した能楽師の有松遼一さんに、現代が見失いかけているものを尋ねた。

 ――随筆執筆の機会はコロナ禍でした。

 公演や稽古会が軒並み無くなりました。能楽師もかすみを食べて生活しているわけではありません。じんわりとした焦りに駆られて、ことばをつづり始めました。本を読む時間もたくさん取りましたね。

 ――とくに印象に残った本は。

 草木に仕える「花士(はなのふ)」を名乗る珠寳(しゅほう)さんの「一本草」という本です。いけ花と能とジャンルは違いますが、共通する価値観に貫かれていました。

 たとえば、「(花をいける)依頼を受けてから、その当日を迎えるまで、ずっとその日のことをイメージして過ごしています。そして当日を迎え、花瓶の前に座った時点で、花をいける前にほとんどのことが終わっているのです」と述べる文章があります。命ある存在としての花をいたわる所作です。

 いけ花に限らず能でも将棋でも、水面下で膨大な検討や準備を重ねアウトプットを出すのは同じです。仕事は一瞬でも、そこに至るまでの道のりが長く深い。過程を丁寧に見つめる姿勢に共感しました。

 ――見えない部分が重要ということですね。

 社会の体力が衰えてきたのか、見えないことが存在しないことと同義のように扱われるようになってしまいました。

 能を大成した世阿弥は、能の舞台で誰も注目していないような演技のすきまを「せぬひま」と表現しました。「油断なく心をつなぐ性根」こそ「外に匂ひて面白きなり」。「この内心ありと、よそに見えては悪かるべし」と言っています。現代の「やっています」アピールとは正反対の方向性です。

 見えない部分が重要というの…

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