日夜、たくさんの言葉に囲まれている。仕事メールに追われ、Xのタイムラインを眺め、LINEで息抜き。一方で生成AIが登場し、「私の言葉」って何?と考えさせられる。フランスの思想家、ロラン・バルトの翻訳で知られ、エッセーの書き手としても注目される仏文学者の石川美子さんに聞いた。
――版を重ねる「山と言葉のあいだ」(ベルリブロ)は、往年の作家・思想家たちの心象風景をたどり、ご自身の趣味である登山とロッククライミングの境地、出会った人々とのやりとりが、静かに細やかに記されています。
すべて亡くなった人たちの話になりました。意識していたわけではないのですが、長く忘れていた彼らの言葉が、ふと頭をよぎることが増えてきたのですね。山の表情を眺め、川べりをのんびり歩いたり、久しぶりに道端で見つけた花にはっとしたりしたときに、体の中に眠っていたものが思いがけず表に現れ出てきた。言葉とともに、当時の音や匂いまでも一緒によみがえったような気がしました。
そうした言葉を受け止め、書こうとしたとき、自分の文体を生み出したいと考えました。それまで書いてきた研究論文とは違う文体を。でも、これが難しい。作家のプルーストや車谷長吉たちが、好きな作家の文章を筆写していたことに倣(なら)い、私も永井荷風の作品を書き写してみましたが、納得のいく文章が書けるまでに3年かかりました。
常套句を使わない
――こだわったことは。
パリ留学中に知り合った司馬遼太郎さんから、あるとき「概念を使ってはいけない」と教えていただいたことがあります。「概念を使いそうになったらすぐに黒板拭きで消しなさい」。司馬さんらしい、ユーモアをこめた助言でした。概念とは哲学的意味だけでなく、常套句(じょうとうく)なども含みます。理解してもらいやすい通行手形ですが、それは他の人の言葉の繰り返しにすぎない、というのですね。
同じ文脈で思い出すのは、バルトが述べた「反復による集団的な押しつけ」という指摘です。多くの人から容易に納得してもらえる言葉と、自分が本当に言いたいことは別ものなのだと。言葉の持つ怖(おそ)ろしさへの警告として、私は理解しています。
――耳が痛いですね。
ええ、今そうした反復が強まっているように思います。言葉も情報もあふれ返っているのに、限られた語彙(ごい)で似たり寄ったりの話をする。多様性が叫ばれながら、どんどん集団的になっていませんか。
自分の言葉がないと、感性も…