20年前の津波と内戦の戦火で廃虚となった学校の校舎=2024年12月6日、スリランカ北東部バカライ、武石英史郎撮影

 22万人以上の死者・行方不明者を出したインド洋大津波から26日で20年がたつ。3万5千人以上が犠牲になったスリランカでは、津波をきっかけに、長年続いた内戦の潮目が変わった。さらにインフラ開発を通じて中国の影響力が強まり、債務が膨らんで経済破綻(はたん)に至った。被災地を再訪し、この20年の意味を考えた。

 崩れかけた学校の校舎が20年の激動を物語る。北東部バカライの海岸近くにある校舎は津波でまず破壊され、その後、爆撃や銃撃を浴びた。壁の一面と周囲のヤシの木の幹には無数の弾痕が残り、住民が去って伸び放題のやぶにのみ込まれようとしている。

津波を耐え抜いたものの、内戦中の艦砲射撃で幹に穴が開いたヤシの木=2024年12月6日、スリランカ北東部バカライ、武石英史郎撮影

 案内してくれた村長は「津波の後、この一帯には2千人ほどのLTTEが潜み、訓練キャンプにしていた。そのため政府軍の艦砲射撃にさらされた」と説明した。

 LTTEとは、多数派のシンハラ人支配に反発し、分離独立を目指す少数派タミル人の反政府武装組織「タミル・イーラム解放の虎」のことだ。1983年ごろから活動を始め、北部から東部にかけての支配地域は一時、国土の3分の1に及んだ。津波では「シータイガー」と呼ばれた海上部隊を中心に被害が大きく、組織の弱体化の一因となったとの見方がある。

 20年前、記者がバカライに入って取材したのは津波から6日後だった。政府支配地域から検問所を越えると、すれ違うのは牛車や自転車ばかり。車が渋滞していた政府側の地域と比べて明らかに発展は遅れ、救援もあまり届いていなかった。

 今は2車線の舗装道路が村の中心を通り、津波で壊された教会も10年ほど前に再建された。どこにでもある静かな村のように見えるが、人々と話すと、当時の傷痕は生々しく残っていた。

 海岸近くに住んでいた漁師シニタンビ・シティラベェルさん(64)は「私は漁師だから、どんな海だろうと泳ぐ自信があった。だが、あの波はヤシの木の高さほどもあり、ピンク色で、地鳴りがする見たことのないものだった」と振り返る。

家族3人を失った20年前の津波の様子を語る元漁師のシニタンビ・シティラベェルさん=2024年12月6日、スリランカ北東部バカライ、武石英史郎撮影

 木にしがみついて一命を取り留めたが、妻(当時37)と長女(同12)、長男(同8)を失った。隣家ではちょうど葬儀で大勢の人が集まっていて、38人が亡くなった。

 津波からまもなくすると、村の周辺では政府軍とLTTEの戦闘が激しくなった。生き残った1歳の末娘を抱いて森に身を隠し、政府支配地域の避難民キャンプに身を寄せた。1年後に戻ると、村は政府軍であふれていた。

 今は政府が割り当てた海岸から300メートルほど離れた場所に家を建て、21歳になった娘とその夫、1歳の孫と暮らしている。しかし、時間はあの日から止まったままだ。「流された家族は戻らない。思い出すたび、押しつぶされそうな気持ちになる」

「人間の盾」となって

 津波は内戦の力関係を大きく…

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