村総出の救出活動
1890年9月16日夜半。不気味に荒れ狂う海は、明治維新後間もない新生日本を訪れたトルコ軍艦にその牙をむいた。
暴風雨と大シケの波間に次々と投げ出され、暗い海中に消えていく乗組員たち。「どこのもんでもかまわん、助けなあかんのや!」。村人らは必死の覚悟で救出に向かう――。
トルコとの友好125周年を記念した映画「海難1890」(2015年)のスペクタクルシーンである。
惨劇の舞台は134年前の紀伊大島沖合(和歌山県串本町)。親善使節団としての任を終えて帰国の途についたオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号は嵐に遭遇して座礁、機関部が大爆発を起こして沈没した。生存者はわずかに69人。580余の命が失われた。
海難史上に残る大惨事だが、それをさらに有名にしたのは、村総出で懸命な救出活動にあたった地元大島の村人らの活躍だ。当時の証言によると、大柄な船員を一人は背負い、一人は尻を押し、一人は上から引っ張って……と、3~4人がかりで負傷者を引き上げたという。衣服はもとより貴重な白米を持ち寄っておにぎりを与え、非常食の鶏もつぶして提供した。
そんな国や民族の違いを越えた献身は後世の語り草となり、トルコが親日国として友好を深める礎となった。このエピソードはトルコの小学校の教科書にも採用され、子どもたちに紹介されている。
本州最南端の地
特急くろしおに乗って、大阪から約3時間半。本州最南端の地、串本町に降り立ち、そこから大島へ。観光周遊バスで約40分ほど揺られていると、樫野埼(かしのざき)灯台への入り口に着いた。真っ青な太平洋を見晴るかす島の先端に、重厚な遭難慰霊碑やトルコ記念館がある。眼下には、歴史的大事故がうそのように穏やかな海が広がっていた。
「あそこが遭難の現場です」
トルコ記念館の管理人、森真理さんが指さす先に視線をおくると、海面から険しい岩礁がいくつも頭を出し、白波が激しく打ち寄せている。確かに、嵐の夜ともなれば屈強な軍艦といえど、ひとたまりもなさそうだ。
記事の後半では、村人たちが献身的な救出活動をした理由や、100年後の「恩返し」などについて紹介します。
慰霊碑では毎年、受難の日に…