日本で放送が始まって100年。民放の人気番組が全国津々浦々で視聴できるのは、ローカル局によって張り巡らされた放送網があるからだ。人口減やメディア環境の変化で、ローカル局の経営は厳しさを増している。地方発の放送文化の現在と将来について、「日本ローカル放送史」の著書がある東海大の樋口喜昭教授に聞いた。
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――3大都市圏をのぞくと、日本ではほとんど県単位で放送エリアが決まっています。
1957年に39歳で郵政大臣になった田中角栄の影響が大きい。彼は、日本の交通インフラのみならず、現在の放送の形も整備しました。自ら地元の有力者を呼び、免許を大量に交付することで地方局の設立を加速させた。
50~60年代にローカル局が開局したとき、地元の人たちの喜び方は尋常ではなかった。放送局の誕生を祝って歌をつくったところもありました。見えないものが見えるようになり、遠くのものが聞こえるようになることへの強い憧れと、それが生活の豊かさに直結していた時代でした。
「マスメディア集中排除原則」という縛りもかかっています。放送事業が特定の資本に集中することを防ぐために設けられ、放送の多様性や表現の自由を守ることが念頭にあったのです。
――この原則は近年になって、緩和されました。今年は日本テレビ系列の北海道、大阪、名古屋、福岡の4社の経営統合がありました。
持ち株会社が都道府県を超えて放送局をグループ経営できるようになり、複数県で番組を統一することが可能になっています。今後、県単位で成り立ってきたローカル局の枠組みを大きく変えることになるかもしれません。
――番組を一斉に視聴者に届ける全国ネットワークを支えてきたのは、中継局などのインフラです。昨年、NHKと民放の中継局の共同利用会社が設立されました。ソフトとハードの分離は進むのでしょうか。
コスト面では送信設備は一つのほうがいいのですが、災害リスクを考えれば分散したほうがいいという考え方もある。とはいえ、地域経済が疲弊するなかでローカル局の経営は厳しく、分業化の流れはもう止められないと思います。
――ハード面だけでなく、番組づくりでもローカル局の独自性は損なわれてしまわないのでしょうか。
ローカル局は当初、番組制作の体力がなかったため、キー局から番組を購入し、それを中継網で流す形式が主流になりました。キー局が広告主と契約して、その一部を地方局に分配する仕組みもできた。地方局からすれば、番組にお金がついてくる「金のなる木」のような存在だったとも言えます。その構造はいまも変わっていません。
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公害や過疎問題で転機も……
――自主制作比率はいまも1割程度に過ぎず、番組も収入も依存する形ですね。
ただ、60年代以降は水俣病…