「ああ、死ぬってこんなもんかしら」。幼心にそう覚悟を決めた。
1945年8月6日。当時7歳の高崎久代さん(87)=広島市南区=は爆心地から2.5キロ、牛田町(現・東区)の自宅にいた。神戸から疎開し、両親と妹2人、祖父と二葉山近くで暮らしていた。
その日、母は末の妹を連れ、親戚宅で暮らす姉を迎えに出かけた。高崎さんが通う白島国民学校の児童は饒津(にぎつ)神社(現・広島市東区)で授業を受けていたが、家事をするため休むことにした。
みそ汁に入れるジャガイモの皮を祖父とむいていたときだった。「ドーン」という音が鳴り響き、爆風で飛ばされた。視界が真っ暗になり、赤土でできた家の壁を突き抜け、隣家まで飛ばされた。赤土がのどの奥にはりつき苦しかった。「これが死んだ後の世界なんだ」
幸い大けがはなく、家族もみな無事だった。
やがて自宅前にいた高崎さんの目の前を、大勢の人が二葉山へと坂を上がっていった。男女の見分けがつかないほどの大やけどを負い、手から皮膚が垂れ下がっている。背中と足の裏の皮膚がくっついて歩くのがやっとの人もいた。
「お水をください」7歳で見た光景
「お水をください」と頼まれ…