土崎空襲で落とされた爆弾の破片で首がとれたと伝わる「首なし地蔵」(右の2体)=2025年7月18日午後5時24分、秋田市、小崎瑶太撮影

【連載】最後の空襲#3

 たった1個の赤い丸が、教科書に載っていた。

 それは、爆弾の破片に貫かれ、死亡したことを伝える丸だった。

 1945年8月14日深夜から、旧日本石油秋田製油所(秋田市土崎地区)への爆撃が始まった。

 米軍は製油所を標的にしたが、住宅街にも爆弾は落ちた。

 米国が戦後に作成した資料には、100ポンドと250ポンドの爆弾を選んだとある。

 飛び散った鋭い破片が、地上の人々を殺傷した。

 その一つは国民学校初等科6年生の男の子の右脇腹を貫通した。5センチほどの穴の開いた茶色の学童服が今も残されている。

学童服の脇腹は、貫通した爆弾の破片で穴が開いた。国民学校初等科6年生が着ていたと伝えられている=2025年7月18日午後4時31分、秋田市土崎港西3丁目、小崎瑶太撮影

 つぎはぎが目立ち、当時の窮状も物語る。

 これが赤い丸、土崎空襲だ。

【初回から読む】届かなかった暗号「ユタ」 米文書に残る爆撃の理由

 1945年8月15日。降伏が決まっていたのに、失われた命がありました。当時の子どもたちは、何を見たのか。人々は空襲をどう伝えてきたのか。全4回の3回目です。

 語り部の一人、伊藤津紀子さ…

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