Smiley face
写真・図版
堀部安兵衛が養子に至る経緯を記した冊子=2024年11月21日午後2時46分、兵庫県豊岡市、菱山出撮影
  • 写真・図版

 「高田馬場のあだ討ち」で名高い赤穂浪士の一人、堀部安兵衛(ほりべやすべえ)(1670~1703)直筆の文書2点が見つかった。吉良邸討ち入りに先立って親類に宛てた遺書と、やはり赤穂浪士の堀部弥兵衛(1627~1703)と養子縁組に至る経緯を記した冊子「養子一件書付(かきつけ)」。兵庫県豊岡市の市立歴史博物館で17日まで展示している。

 市内在住の郷土史料研究者から博物館に調査依頼があり、史料調査員の石原由美子さんと、赤穂大石神社(赤穂市)非常勤学芸員の佐藤誠さんが調べた結果、筆跡から直筆であることが確認された。

 文書はいずれも小型の木箱に収められていた。遺書は討ち入り直前の元禄15(1702)年11月20日付。討ち入りは12月14日。

 出身地の越後国新発田(現・新潟県新発田市)の親類に宛てた「いとま乞い」で、幅17センチ、長さ171センチの和紙に記されていた。

 内容は浅野内匠頭の刃傷事件から討ち入りに至る経緯を簡潔にまとめたもので「以後者態絶書音候、此度為御暇乞如斯御座候(以後はあえて音信を絶ちます。おいとま乞いのためこのとおりでございます)」と覚悟を決めた様子がうかがえる。

 「養子一件書付」は元禄8(1695)年付。小半紙を二つ折りにし、こよりでとじた86ページの冊子で縦19センチ、横12センチ。内容は堀部弥兵衛との初対面から養子縁組に至るまでの経緯を本人自ら記したもので、安兵衛の名を有名にした「高田馬場のあだ討ち」についても言及がある。

 いずれの文書も昭和初期に刊行された文献に収録されているが、直筆の原本は長年所在が不明だった。

 佐藤さんは「安兵衛はこの遺書が書かれたころから、ほかの遺書も書き始めており、このころから身辺整理を始めたのではないか。『養子一件書付』の史料とともに、自筆が出てきたことで安兵衛自身が述べていることも分かり、大変貴重な史料だ」としている。

 開館時間は午前9時~午後5時(入館は午後4時半まで)。水曜休館。無料。

共有