戦禍によって親を奪われた戦争孤児たち。戦後になると、路上で生きるほかなかった子どもらは「浮浪児」と呼ばれ、排除・取り締まりの対象として白眼視されていった。
戦時中は「国児」と呼ぶ案も
戦時下、戦死した兵士の遺児は国家から「誉れの子」と呼ばれた〈「『誉れの子』と戦争」(斉藤利彦著)〉。
終戦を目前にした1945年6月に当時の厚生省がまとめたとされる「戦災遺児保護対策要綱案」においては、子どもたちを孤児ではなく「国児」と呼び、国家が保護育成する方針が示されていた。
その目的はこのように記されていた。「宿敵撃滅ヘノ旺盛ナル闘魂ヲ不断ニ涵養(かんよう)シ強ク正シク之ノ育成ヲ図リ以テ子女ヲ有スル父兄ヲシテ後顧ノ憂ナク安ンジテ本土決戦ニ敢闘セシメントス」
児童福祉というより戦意高揚のための政策であったと言える。
戦後の極度の窮乏のなかで、空襲で住む家や仕事を失ったり、中国など外地から引き揚げてきたりした人々が、大都市の街頭にあふれた。
そのなかには数多くの戦争孤児や乳幼児を連れた女性もいた。
敗戦直後の45年9月に出された「戦災孤児等保護対策要綱」では、子どもたちへの対応策として、①個人家庭への保護委託②養子縁組③施設での集団保護、という三つの方法が示された。
3カ月前の要綱案で提起された「国児」という呼び方は消えていた。
放置された戦争孤児
一部の民間施設が救援に奔走したものの、公的支援は極めて不十分なものだった。路上に放置された子どもたちは当時「浮浪児」と呼ばれた。
こうした子どもらがどれぐら…