東京電力福島第一原発の事故後、「復興のフロントランナー」と言われた福島県川内村の避難指示の大部分が解除され、1日で10年となった。ただ、若い世代が戻らず、当初思い描いたような村づくりが進まない。村は存続を懸け、身を切る覚悟で、手がけた復興施策の検証を始めた。

 阿武隈高地の中央にある村には震災前に約3千人が暮らし、2011年の原発事故の直後、村独自の判断で全村避難した。1年後に役場と学校を再開させ、原発20キロ圏の村東部に設定された避難区域も14年から段階的に解除された。村内の放射線量は比較的低く、避難指示の解除は、原発がある双葉郡の8町村で最も早かった。

福島県川内村の遠藤雄幸村長=2024年9月12日午後5時18分、福島県川内村、岡本進撮影

 区域内の水田と山林を切り開き、村初の田ノ入工業団地が完成したのは2017年だ。約15ヘクタールの敷地に、村は社宅用地を含む11区画を用意した。郡内で失われた就労先をいち早く整え、ふるさとの近くで暮らしたい未解除区域の住民も呼び込もうとした。「5千人規模の村」をめざした。

 総事業費28億円は、原発被災地向けの国の福島再生加速化交付金などで全額国費で賄われた。工場設置費も国が最大4分の3を補助する手厚さで、全国の10社以上から照会があった。だがいま、稼働する工場は29人が働く機械部品メーカー(本社・さいたま市)1社で、空き地が広がったままだ。毎年草刈り代に100万円かかる。「従業員の確保が見込めないと多くの企業が断念した」と村の担当者はこぼす。

 避難区域になった酪農家の草野美恵子さん(69)の自宅には、隣町で暮らす長男夫婦が子どもの小学校入学に合わせて11年春から同居する予定だった。だが、事故で家族はバラバラに。草野さんは「我が家が一番」と、避難指示の解除にあわせて避難先のアパートから夫と母と一緒に戻ったが、47歳の長男は村外に自宅を建てた。

高校がなく、働き手は都市部に

 村に高校はない。事故前に村の子どもの大半が通っていた郡内の五つの高校も休校になった。酪農は廃業し、野菜を作りながら暮らす草野さんは「高校進学を考えれば仕方がない」と話す。村が移住を期待した村外の避難区域の働き手の多くも都市部に家を構えた。

避難指示が解除された自宅前の畑で野菜を収穫する草野美恵子さん=2024年9月19日午後2時35分、福島県川内村、岡本進撮影

 役場の課長ら7人がそろう場で、遠藤雄幸村長が「この13年の検証をしよう」と伝えたのは今年5月だ。村の復興事業費は530億円に上り、ほとんどが国からの予算だ。村内に広がった放射性物質を取り除く除染の費用が3分の1を占めるも、復興事業が落ち着いてきたとはいえ、村の今年度の一般会計当初予算は59億円と事故前の倍を超す。

 工業団地以外にも、多くのインフラ整備が進んだ。周辺都市をつなぐために、事故前からあった国道や県道の計画は、復興道路と位置づけられ、急ピッチでトンネルが掘られて大半が開通した。コンビニと食堂が入る商業施設、移住者が暮らせる戸建て住宅、トレーニングジムも備えた室内プールもできた。

 だが、18年に2202人まで戻った住民は、9月時点で1869人と逆に2割近く減った。20~50代は595人と事故前の半数にとどまる。生まれる子が年10人に満たない年が多く、60人前後の高齢者が毎年亡くなっている。56・6%の高齢化率は県内の自治体で2番目に高い。

川内村の地図

「復興ではなく、過疎対策ではないか」

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