通天閣観光の高井隆光社長=2025年5月7日午後4時28分、大阪市浪速区、水野義則撮影

 大阪の観光名所「通天閣」の変化が止まらない。体験型アトラクションを次々備え、コロナ禍前を上回る入場者数をたたき出す一方で、昨年12月には私鉄大手傘下に入った。運営する通天閣観光(大阪市浪速区)の高井隆光社長(50)がめざす先にあるものとは。

 ――戦後復興で通天閣が再建され、来年で70年になります。

 大阪で開かれた内国勧業博覧会の会場跡地に、遊園地「ルナパーク」とともに1912年に造られたのが初代通天閣です。遊園地の塔とロープウェーで結ばれ、豊かさと遊び心がありました。ニューヨークやパリをテーマにした新名所は「新世界」となりました。

 ところが、太平洋戦争のさなかに足元から出火。解体され、金属供出されました。戦後、有力な地場産業がないこの地域の人々が渇望したのが、通天閣の復活でした。住民が資金を出し合い、56年に通天閣は再建されました。

 ――待望の復活は大歓迎でしたか。

 話題となり、57年度の入場者は155万人を突破。ただ、資金不足でアトラクション要素はなく、売りは景色だけ。高度経済成長期の光化学スモッグ問題で近くの天王寺動物園さえ見えなくなり、景色も経営も暗黒時代です。入場者は19万人まで落ち、累積赤字は5千万円に。その際に、地元で食堂を経営していた僕の祖父と、前会長の父親が2500万円ずつを出し合い、運営会社から経営権を買って経営に乗り出しました。雨漏りもしているし、手すりはさびまみれ。望遠鏡を交換したくても、融資元を探すのにも苦労し、個人保証をつけてやっとでした。

 ――ご自身は30歳で通天閣観光に入社しました。

 会長だった祖父が亡くなり、副社長として入りました。通天閣が見える場所で、幼少期から祖父に「地域を変えたい」と聞かされて育ったので、いつか経営に携わると思っていました。入場者はピークの半分以下の71万人。地域に活力を取り戻すのに通天閣をいかせなければ潰してもいい、と僕は考えた。ただ、周りは怖かったみたい。

 目を付けたのがビリケンさん。足の裏を触ると幸せになるって、ほんま面白おかしいです。初代の通天閣に飾られていたのを祖父らが復活させたのですが、当時は「宇宙人」と怖がられて集客には逆効果で、居場所を失って展望台に置かれていました。僕はキャラクター化しグッズ展開しようとした。罰当たりだと反対されたが、やりました。入社3年目には入場者が100万人台を回復。さらなる集客をめざし、地上92.5メートルに先端部分の床が透明になっている「跳ね出し展望台」を造りました。その直後に、コロナ禍という試練を与えられました。

 ――どう乗り越えましたか。

 2020年4月に大阪にも緊…

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