毎年3月に催される春日祭。葵祭、石清水祭と並ぶ三大勅祭のひとつ=春日大社提供

 世界遺産の奈良・春日大社の歴史や文化をひもとく「春日文化の杜(もり)講座 2024」が11月中旬、大阪市北区の中之島会館であり、花山院(かさんのいん)弘匡(ひろただ)宮司が「春日に伝わる藤原氏の信仰のかたち」と題して講演した。平安時代に権勢を誇った藤原道長ら歴代の藤原氏の春日信仰について、約250人(オンラインを含む)が聴き入った。

 春日大社は藤原氏の氏神を祭り、戦後は藤原氏の子孫が宮司を務めてきた。

 「私の家は、道長の曽孫、左大臣藤原家忠が1代目となります」と花山院宮司。花山院家は、公家の家格の序列で、藤原氏嫡流(ちゃくりゅう)の五摂家に次ぐ九清華家(せいがけ)の一つだった。家忠が花山(かざん)上皇の屋敷を受け継いだのが始まりで、花山院宮司は33代目の当主にあたる。

 遠い祖先である道長の春日信仰はどんなものだったのか。「6度の参拝が記録されています」と花山院宮司。

 最初は23歳の時だ。989年、一条天皇の行幸に、父の関白・藤原兼家に従って参拝した。奈良時代から伝わる「和舞(やまとまい)」を奉納し、饗宴(きょうえん)ではうどんのルーツとされる「餺飥(はくたく)」が振る舞われた。

 2回目は左大臣に就いた30歳の時。一族を率いる「氏の長者」となり、勅祭・春日祭(かすがさい)の祭祀(さいし)権を持ち、都から約2千人を従えて参拝したという。33歳と41歳の春日詣(もうで)も大規模だった。「最高権力を持ち、藤原氏の氏神への参拝は大々的となりました」

 ところが、53歳での参拝は趣が違った。東大寺や興福寺もめぐったのだ。「晩年は体調を崩しており、神仏に頼ったのでしょう」。2年後に天皇の行幸に従ったのが最後となった。神宝として、道長が奉納したとされる鏡(重要文化財)も伝わっている。

 道長の長男・頼通(よりみち)は、美しい灯籠(とうろう)を寄進した。火をともすと瑠璃色に光る逸品、「瑠璃灯籠」だ。文化財のため、今は複製品が夜の祭事の折に本殿に掲げられる。

 道長の玄孫(やしゃご)の藤原忠実(ただざね)が摂政・関白となる平安末期は「道長の次の時代」(花山院宮司)。道長を直接知らない世代が実権を握った。

 ところが、この時代は長雨により各地で疫病が蔓延(まんえん)し、人々は飢饉(ききん)に苦しんだ。そんな時、新しい神様として春日若宮神が誕生する。鳥羽上皇や忠実らは1135年、新社殿が完成した日に参拝した。天候は徐々に回復したという。

 春日大社では神仏習合が進み、本来は寺院にある五重塔が2基、参道近くに並び立った。忠実と鳥羽上皇がそれぞれ建てた。ただ、戦乱などでともに焼失し、跡地には奈良国立博物館が立つ。

 今に伝わる多くの神宝が奉納されたのもこの時代だ。京都にも残っていない、平安の技の粋が尽くされた美しい太刀などで、国宝や重要文化財に指定されている。「藤原氏の文化力や芸術力の高さは、現在でも察することができます」

 神仏習合は鎌倉時代にさらに深化し、鹿や境内の社殿を描いた「神道曼荼羅(まんだら)」が広まる。作ったのは藤原氏。春日詣をする代わりに、都の自邸に掛けてお祭りをした。仏教のものだった曼荼羅が、藤原氏の信仰から神道に発展した神道文化という。

 春日大社と藤原氏は、現在も春日祭に子孫が参列するなど、強い絆で結ばれている。講演では、一般公開されない祭りの様子が動画で紹介された。

 「藤原氏は長い年月の中で日本の文化や信仰の根幹を作りました。その流れは現在も続いています」。花山院宮司はこう締めくくった。

 講座は、春日大社、朝日新聞社、朝日カルチャーセンターの主催。アサヒグループホールディングス、中外製薬が協賛した。

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