加藤登紀子さん 戦後80年、言葉と歌と(中)
歌手の加藤登紀子さん(81)は、中学生のときに父親が開いたロシア料理店での経験が、歌うことへの深い思いにつながっているといいます。ハルビンで生まれたことから感じた苦悩と、それでも募った遠い故郷への思い。歌手生活60年を迎え、自分が歌っている意味を確かめ、祈りを込めつつ、8月にハルビンでコンサートを開きます。
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――1958年にお父さんが「スンガリー」(松花江。ハルビンを流れる大河)という名前のロシア料理レストランを東京で開店されました。
私が中学生のとき、父はレコード会社に勤めながら、家族に何の相談もしないで「スンガリー」を開きました。当時、中ソ関係が悪化するなどして、戦前から中国東北部に住んでいて日本人と関係があった亡命ロシア人たちの中で、日本に移り住む人たちが多くいました。父はそんな故郷のないロシア人たちの居場所を作りたいと考えたのです。
――店はどんな雰囲気だったのですか。
コックさんなど従業員はロシア人で、父と母が新婚の頃に過ごしたハルビンの街が再現されたような楽しい場所でした。私が店に行くと「ミーラヤ ジェーブシュカ(かわいいお嬢さん)」と言って、抱きしめてくれる。いつも閉店近くになると、いろんなロシア人が集まってきてウォッカを飲んで大合唱になり、父も自慢ののどを聞かせます。戦後に旧ソ連によるシベリア抑留から帰ってきたハルビン学院の卒業生たちも多くいました。
歌うことにこれほど深い思いを
もし、「スンガリー」がなければ、自分にとってハルビンは、過去の知らないままのところになっていたでしょうし、歌うことにもこれほど深い思いを抱くことはなかったかもしれません。
――ロシア語を学んだことはあったのですか。
「スンガリー」でよく流れていたロシア民謡「モスクワ郊外の夕べ」を、母にロシア語のキリル文字の辞書の引き方を教えてもらいながら、歌詞の意味を調べて覚え、歌ってみたことがありました。歌を歌うには、言葉の一語一語の意味をよく分かっていないとうまくいきません。それはロシア語に限らず、その後に歌うことになった多くの他の言語の歌にも、みんな同じように取り組みました。
【連載】加藤登紀子さん 戦後80年、言葉と歌と 「語学の扉特別編」
加藤登紀子さんは、中学で歴史を習って、自分がハルビンで生まれたことについて悩むようになります。記事後半では、1981年にコンサートのために訪れたハルビンでの経験、そして今年8月に予定する同地でのコンサートにかける思いを紹介します。
また、いつだったか私が一時…