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成願寺に残る旧防空壕=2025年5月19日、東京都中野区、嶋田達也撮影

 東京の山の手地区が爆撃され、3千人以上が亡くなった「山の手大空襲」から5月25日で80年。都庁からも近い東京都中野区の成願寺には、戦時中に造られた長さ約40メートルの旧防空壕(ごう)が今も残り、小中学生など見学者が足を運んでいる。

あなたの街の空襲 航空写真で比べる戦時と現在

太平洋戦争末期、日本の多くの都市が空襲を受けました。当時の航空写真と同じ角度で現在の姿を撮影し、比較しています。

 終戦前年の1944年、僧侶や檀家(だんか)の人たちが裏山を掘って完成させた。高さは2メートルほどで、空襲のたびに近くの住民も避難していたという。爆風を避けるため、通路はジグザグに掘られている。

 寺で発行している季報には、近くに住んでいた檀家の手記が掲載されている。

 「空襲のたびに大きな荷物を抱え、子どもの手を引いて成願寺の防空壕に逃げ込みました。足は震え、中に入っている人たちは、誰も口をきくことさえしません。恐ろしくて、じっとサイレンの音の止(や)むのを待つばかりでした」

 米軍の資料によると、45年5月25日深夜から26日未明にかけてマリアナ諸島のグアム、サイパン、テニアンを離陸した464機のB29爆撃機が3258トンの焼夷(しょうい)弾を投下。279機が焼夷弾1665トンを投下した同年3月10日の「東京大空襲」の規模を大きく超えていた。

 この空襲で約3600人が亡くなったとされる。

東京大空襲を超える規模で爆撃を受けた山の手大空襲。成願寺では防空壕を「旧」防空壕と呼んでいます。その理由を聞きました。

 皇居から西側を中心に広い地…

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