名古屋城のシンボル「金の鯱(しゃちほこ)」は1945年5月14日、米軍の空襲で天守とともに炎上した。あたりに散らばった金のうろこは進駐軍が接収。戦後、名古屋市に返還され、金の茶釜に生まれ変わった――。市民に広く知られるこのエピソードが、実は誤りだった可能性のあることが名古屋城調査研究センターによる調査の過程で分かった。通説を覆すような資料に偶然気づいた学芸員は「衝撃を受けた」と振り返る。
接収された金シャチの燃えがら
金シャチは、1612年に名古屋城の天守が完成した際、尾張徳川家の支配力を誇示するために設置された。たくさんの金のうろこで装飾された金シャチは、1873年にはウィーン万博に出展され、世界的にも注目を集めた。
だが、80年前の名古屋空襲で炎上。雄(北側)のシャチは全焼し、雌(南側)のシャチも大きな被害を受けた。燃えがらの一部は市職員が倉庫に隠匿したが、ほとんどは終戦後に進駐軍が接収。当時の資料によると、接収されたのはうろこや鉛が融解して固まった金属塊で、その量は石炭箱13箱に上ったという。
1959年、「接収貴金属等の処理に関する法律」が成立。この法律に基づき、市はただちに大蔵大臣(現財務大臣)宛てに返還を請求し、8年後の67年に合金が返された。
当時、すでに名古屋城は再建され、2代目金シャチも完成していた。市は戻ってきた合金を加工し、金の茶釜と名古屋市旗の冠頭として小さな金シャチを作った。
冠頭が完成した際、朝日新聞は「戦災で焼けた名古屋城天守閣の金シャチが二百分の一の大きさになって生まれ変わった」と報じている。
その後、茶釜と冠頭は城内で保管され、催し物などの時に特別に展示されてきた。
「え、そうだったの?」
しかし、燃えがらと思われて…