■日本高野連の元事務局長が語る「高校野球半世記」

 金属製バットが国内で使用されてから半世紀が経ちます。戦後に始まったハワイ選抜との交流で、ハワイ側から1973年に「アルミ製のバットを持って行っていいか」と打診がありました。

 当時、木製バットは価格が高騰していた。原材料不足が原因です。日本高校野球連盟の佐伯達夫会長(当時)は「野球の発展を阻害するのは道具の値段だ。何とか安くせなあかん」と言っていました。金属は折れることが少ない。これをきっかけに74年、高校野球で初めて導入され、米国製の3600本を加盟校に2本ずつ配布しました。

 安全基準も設けられましたが、メーカーは「飛ぶバット」を競うように作り始めます。ボールが当たる打球部を薄くすることで、バットがへこんで元に戻ろうとする力、つまり「トランポリン効果」が大きくなる。そんな仕組みです。

 その分、耐久性は低くなる。84年ごろ、割れるバットが増えました。金銭面の課題を解決するために金属製バットを導入した理念に反します。86年には強度に関する安全基準を見直しました。

 安全基準を作成するにあたって、たくさんの方にご協力いただきました。「金属製バット安全基準検討委員会」のメンバーに、金属材料学の専門家だった東大の加藤正夫教授がいました。かつて戦闘機の開発に関わった方でしたが、大変お世話になりました。

 加藤先生がお亡くなりになった際、東京の大きな寺であった葬式に行きました。弔辞ではこんな話が紹介されました。「先生は戦争中に零戦の開発に関わっていたが、晩年は高校野球の金属製バットを研究し、『こんな平和な活動に貢献できるなんて、この上ない喜びだった』と言っていました」と。うれしくて、思わず涙が出ました。

 使えなくなった金属製バットの一部はリサイクルしています。92年の全国選手権大会前に始まりました。各地方で集めたものを運送会社を通じて輸送します。ところが廃棄物処理法の規定が厳しくなり、2002年に部活動の金属製バットは環境省から「産業廃棄物」とみなされ、処理・運搬は特別な許可がないとできない、と通達されました。

 環境省からの帰りに朝日新聞東京本社に立ち寄り、運動部の記者に「困ったわ」と相談しました。すると話を聞いていた別の記者が同年7月、一連の流れを「高校野球の金属バットのリサイクル、輸送に壁」と記事にしました。

 数日後、環境省から電話が来ました。「今度、東京にいらっしゃる機会はないか」と。課長が対応してくれると思いきや、案内された部屋は環境大臣室。大木浩大臣(当時)に「官邸にしかられました」と笑顔で迎えられ、手すきの和紙でできた文書を頂きました。高校生が物の大切さを学ぶ上で大変有意義だ、とリサイクル活動を推奨する内容でした。以降、産廃ではなく「有価物」として扱われ、これまで全国から累計約20万6千本を回収しています。

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 日本高校野球連盟の事務局長や理事などとして半世紀にわたり、運営に携わってきた田名部和裕さん(79)が、高校野球の歴史を振り返ります。

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