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見つかった朱雀大路の側溝(手前)。奥に見える2本の雨落ち溝の間に築地があったと推定される=京都府長岡京市馬場2丁目、長岡京市埋蔵文化財センター提供

 桓武天皇が奈良の平城京から都を遷(うつ)した長岡京(784~94年)で、メイン通りの朱雀大路(すざくおおじ)の幅が約66メートルだったことが確認された。京都府長岡京市埋蔵文化財センターが発表した。これまで朱雀大路の東側溝などがわかっていたが、今回、西側溝などが新たに見つかったという。

 朱雀大路は、都の中心を南北に走るメイン通り。センターによると、2024年11月から25年1月、長岡京跡の右京五条一坊二町を調査した。その結果、朱雀大路西側溝(幅約90センチ、深さ約40センチ)、雨落ち溝、築地跡の一体的な構造が確認された。雨落ち溝からは瓦も見つかった。

 朱雀大路については、1986年に左京で東側溝とみられる遺構が見つかっている。今回確認された西側溝との距離は約66メートルだった。平城京の朱雀大路の幅は約74メートルとされる。

 ただ、専門家の間では、86年に見つかった遺構は、今回のように雨落ち溝や築地が一体となった構造ではなく、朱雀大路の東側溝と確定するまでには至っていないという意見もある。國下多美樹・龍谷大教授(考古学)は「今後、周辺の調査によって道路の規模等の確定が望まれる」とのコメントを出した。

 今回の発掘調査の成果を紹介する展示が市埋蔵文化財センター(長岡京市奥海印寺東条)で6月30日まで開かれている。問い合わせはセンター(075・955・3622)。

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