長嶋茂雄は昭和、平成、令和と時代とともに駆け抜けた。

 1955年から73年までを「高度経済成長時代」と定義することが多い。長嶋が立大で1号本塁打を放ったのが55年。巨人入団が58年。現役を引退したのが74年だから、プレーヤーとしての活躍はその時代と重なる。

  • 【特集ページ】ミスターがいた時代

 1959年に昭和天皇がプロ野球を始めて観戦した。後楽園球場での巨人対阪神戦。巨人の4番は2年目の長嶋だった。

 「あれからファンの皆さんの見方がひじょうにホットになってきたと思います。プロ野球が時代のメジャーに入って来た大衆のエネルギーの波動が長嶋と一体となった瞬間だったんですね」。長嶋はそんな言葉で当時を振り返っている。「サラリーマンの方が国内はもちろん、海外に会社を代表して出ていってね。一生懸命頑張り抜いた。そういう時代の活力になれたかな、という思いはありますね」

 現役を引退後も時代は長嶋茂雄を手放さなかった。

 75年に巨人監督に就任すると、その采配は「カンピューター」と呼ばれた。就任1年目は最下位に沈む。しかし、2年目にはトレードによる補強も成功し、劇的なリーグ優勝を飾ったのも長嶋らしかった。

 解任されれば、怒濤(どとう)のような「カムバックコール」が湧き起こった。12年の浪人を経て、2度目の監督就任。「私を支えてくれるファンのみなさんの『もう一度チャレンジしてみろ』という声を無にできない」と話した。

 96年、11・5ゲーム差を逆転しての「メークドラマ」は流行語になった。

 「長嶋茂雄をずっとやっていくのも、大変なんですよ」

 その頃、朝日新聞で巨人を担当していた西村欣也(故人)は、長嶋のそんなつぶやきを聞いている。

 最も有名な日本人であり続け…

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