Smiley face

 強豪で知られる関西学院大学ラグビー部で、史上初の女子部員となった。がむしゃらに練習に食らいつき、卒業後には日本代表にも選ばれた。充実感があるはずなのに、玉井希絵さん(32)は大きな不安にさいなまれていた。

 「今、私から女子ラグビーを取ったら何者でもない」

 遠からず競技引退が訪れ、人生は続いていくのにキャリアがない。アスリートのセカンドキャリア支援に取り組むパソナグループに移り、広報の経験を積んでいた2022年、英国では女性選手が競技とキャリアを両立できていると耳にした。ヒントを探りたいと、翌夏、世界最高峰といわれるイングランド女子プレミアリーグに挑んだ。

写真・図版
英イングランドのラグビークラブ「イーリング・トレイルファインダーズ」に所属する玉井希絵さん=2025年4月15日午後2時2分、三重県松阪市、細見るい撮影

 ――ラグビーとの出会いは偶然だったそうですね。

 「小中高時代はバスケットボールでした。バスケをやりきったと感じていた高3の時、学校の廊下で男子ラグビー部の顧問にすれ違いざまに女子ラグビーのトライアウトへの参加を勧められました。日本ラグビーフットボール協会が、女子ラグビーの競技人口を増やす取り組みをしていたんです。その日は予定もなかったので、トライアウトに行きました。初めて触るラグビーボールは『何なんだこの形』と思ったし、接触プレーに『何なんだこのスポーツ』と驚きましたが、合格。日本代表育成枠みたいな形で月1回の合宿に参加することになりました」

1992年、三重県松阪市生まれ。英イングランドの女子ラグビーチーム「イーリング・トレイルファインダーズ」所属。パソナグループの「グローバルアスリート社員」でもあります。記事後半では、英国で見えてきた日本とのキャリアを取り巻く環境のギャップについても語っています。

 ――進学した関西学院大学には女子ラグビー部はありません。

 「大阪ラグビースクールの女子ラグビーチームに所属し、大学では(体育会ではない)ラグビーサークルのマネジャーになりました。1年ほど過ぎた時、父の友人が『せっかく(強豪のラグビー部がある)関学におるんやからもったいない』と言い出しました。部関係者に知り合いがいるからと、監督につないでくれたんです。監督に『真剣にうまくなりたい。日本代表をめざしたいので入部させてください』とお願いすると、『本気なら』と許可してくれました」

 「125人の部員はすべて男子。女子が入ることに反対の声もあったと思います。全員の前で深くお辞儀し、自分の中の覚悟が決まった。だけど、最初の2カ月はまったくなじめず、気まずくてつらかった。落ち込んでいると、友人が『仲良くなるために入ったんじゃないやろ。思いっきり練習すれば』と指摘してくれた。その通りだと気づきました。体格差があるから当たりでは勝てません。走りで勝ちに行くという姿勢でがむしゃらにやっていたら、1カ月ぐらいして先輩から声をかけてもらえた。全体練習後のパス練習にも誘ってもらえるようになりました。行動で示すのが仲間に入る一番の近道だと学びました」

写真・図版
英イングランドのラグビークラブ「イーリング・トレイルファインダーズ」に所属する玉井希絵さん=2025年4月15日午後2時3分、三重県松阪市

 ――監督に宣言した日本代表になる目標はかないましたか。

 「2014年に開催されたフランスW杯は予選のメンバー選考で落選しました。日本代表をめざして関学ラグビー部に入れてもらったのに、在学中にチームメートに証明することはできませんでした」

 「卒業後は地元・三重に戻り、中学校で英語の常勤講師をしながら、ちょうど発足した社会人中心の女子ラグビーチーム、三重パールズで競技を続けました。教員採用試験に受かり、翌年には中学2年生の担任になりましたが、学級経営と競技生活の両立は困難でした。毎日の睡眠を3時間まで削ってもうまくいかなくて。日本代表になれる保証はありませんでしたが、1年で教員をやめる決断をした。同じく教員だった父には『生涯年収いくらどぶに捨てるかわかっているのか』と大反対されました。自分でもマイナースポーツにそこまでやるかと思いましたが、決めたら突き進む性格なんです」

「ザ・セミプロ」になり、練習環境に恵まれたが…

 ――教職を離れ、ラグビーに専念できる環境は手に入りましたか。

 「パールズのスポンサー企業で働かせてもらうことになり、『ザ・セミプロ』の生活が始まりました。午前9時から午後2時まで仕事をして、そこからは練習に集中できる恵まれた環境でした。体つきも変わりました。約2年後の19年に日本代表に選ばれました。感謝の気持ちを持ちながらも、コピーなどの単純な仕事しか任せてもらえないことに不安を感じました。代表活動でまとまった期間出社できないことがあり、会社としても継続性のある仕事は任せづらかったというのは理解しています。ただ、私からラグビーを取ったら何者なのかと疑問がわき、キャリアに対して危機感が芽生えました。わがままを聞いてもらい、競技と仕事の両立支援に動き始めていたパソナグループに転職しました。与えられた仕事は広報です。名刺の渡し方や電話の受け方を教えてもらい、飛び込み営業もしました。社会的マナーも含めて27~28歳で初めて知ることに恥ずかしさもありましたが、全部が新鮮でした」

 「2022年、ニュージーランドで開催されたW杯に日本代表として初めて出場しました。日本は1勝もできませんでしたが、ここでキャリアについて考えさせられる出会いがありました。元イングランド代表選手と話す機会があり、高いレベルで競技をしている選手たちが医師や警察官などのキャリアも同時に実現していると聞き、むちゃくちゃ興味を持ちました」

 「イングランドは、女子ラグ…

共有