松山商(愛媛)の投手として1969年に全国制覇を果たした井上明さんは朝日新聞の記者として、2002年夏の甲子園を取材している。
郷土の代表校、川之江の軌跡についてコラムでつづった。「愛媛大会の戦いぶりから、甲子園では一つ勝てばいいところ、というのが正直な印象だった」
身長189センチの横手投げ、エース鎌倉健(元日本ハム)を中心に臨んだ仙台西(宮城)との1回戦は5―1で勝ち上がった。次戦は埼玉大会の7試合を67得点1失点で圧倒した浦和学院だった。
優勝候補を相手に七回を終えて1―5。だが、八回2死一塁から4連打などで追いつき、九回1死一、三塁から藤原圭輔のたたき付けた打球が二遊間を抜けていった。
「鎌倉もみんなも疲れている。こら、やらなあかんなと思って」。藤原は自身初のサヨナラ適時打を、当時の取材にこう振り返っている。
非力と思われた川之江の打線が、大会屈指の左腕と呼ばれた須永英輝(元日本ハム)を攻略して波に乗った。浦和学院に続き3回戦の桐光学園(神奈川)、準々決勝の遊学館(石川)と強豪を1点差で振り切る粘りを見せた。
準決勝ではミスから失点を重ね、明徳義塾(高知)の壁を乗り越えることはできなかった。それでも選手は成長し続け、1カ月後の高知国体では帝京(東京)を決勝で下し初優勝を成し遂げた。
井上さんのコラムには、続きがある。
「何とか後につなごうという意識が浸透し、打線が文字通り『線』となっていた。失敗を恐れない積極的な守備を掲げ、ミス後のプレーを大事にしたことがここ一番で真の力になっていた。新しい1ページを作った川之江の選手たち。充実の夏に、拍手を送りたい」
この夏の甲子園では川之江のみならず、四国勢が躍進した。優勝した明徳義塾をはじめ、尽誠学園(香川)と鳴門工(徳島)=現・鳴門渦潮=もベスト8入り。四国勢の代表4校がそろって準々決勝へ進むのは、大会史上初めてのことだった。