Smiley face
写真・図版
気温が32度を超えた日、白尾友一さんは1人で黙々と白米千枚田のあぜを直していた=2024年7月25日午後4時12分、石川県輪島市白米町、上田真由美撮影

 その日も、とてつもなく暑かった。

 昨年7月、石川県輪島市で山から海にかけて1004枚の棚田が連なる「白米(しろよね)千枚田」で男性が1人、スコップであぜを直していた。近づこうと棚田を歩いて下りていくだけで、汗が噴き出す。

 男性は、白尾友一さん(61)。地元住民たちによる「白米千枚田愛耕会」の代表だ。あぜに座って話を聞いた。120枚に作付けしたこと、翌年に向けた田の修復を続けていることを知った。

 「1004枚のうちの120枚。たった120枚、と思いますか?」

 その言葉が、ずっと耳に残っていた。

目に見えない被害

 9月、愛耕会は120枚の田んぼで待望の稲刈りをした。

 その半月後、記録的な大雨が奥能登を襲う。山が崩れて土砂がなだれ込み、棚田の上を滝のように水が流れた。元日の能登半島地震より、さらに大きな被害を受けた。

 それでも愛耕会は修復を続けた。

 今年5月には、ボランティアとともに、250枚に田植えをした。

 春、小さな苗が顔を出した水面は、太陽の光できらきら輝いていた。

 初夏、稲の背丈は見るたびに高くなっていた。

写真・図版
250枚に作付けした白米千枚田。ボランティア「草取り十字軍」が田んぼに入って草を抜いた=2025年6月13日午前9時53分、石川県輪島市白米町、上田真由美撮影

 いま、海からの風を受けて稲が揺れ、棚田が波打つように見える。訪れた人たちは笑顔になり、カメラを向ける。

 「でも、目に見えないところが大変なんです」と、白尾さんの妻で愛耕会の広報を担う堂下真紀子さん(41)は言う。

 残る754枚の修復は、気の遠くなるような作業だ。水を張ってみてはじめて、小さな亀裂から水が漏れていないか、一枚一枚が傾いていないかがわかる。深くなりすぎた田には山砂を入れ、深さを調整する。

 「千枚田は観光地で、復興のシンボルとして注目が集まることはわかります。でも、困難な部分はなかなか伝わらないことがもどかしい」と、堂下さんは言う。

 千枚田は2011年に国内初の世界農業遺産に指定された「能登の里山里海」の象徴的な存在だ。

 蓑(みの)の下に隠れてしまうほど小さい田もあるとして「田植えしたのが九百九十九枚 あとの一枚 蓑の下」と謡われる。一枚一枚の田が小さすぎて機械を入れることはできない。この景観を保つため、輪島市が事務局を務める公益財団法人が地権者から土地を借り受け、管理を委託された愛耕会が守ってきた。

写真・図版
白米千枚田で「草取り十字軍」のボランティアたちが草を抜いた。堂下真紀子さん(左から2人目)が指示を出す=2025年6月13日午前9時16分、石川県輪島市白米町、上田真由美撮影

 震災後、市は貴重な観光資源として、復旧を急いだ。災害復旧事業の枠組みを利用し、業者に発注して重機による修復工事を進めようとした。

 堂下さんは驚いた。千枚田は400年前から自然を受け入れながら、それにあわせた形で営みを続ける里山の生活の知恵を象徴するものではなかったのか――。

 「崩れたところを元の形に戻すのではなく、崩れた地形にあわせて新しい田んぼをつくっていく。このプロセスこそ千枚田の魅力だと思ってきた。すごく時間がかかっても、人の手で直していける可能性があるなら、その方が千枚田らしい」

 米づくりと田の修復は一体のものだと掛け合い、愛耕会も修復に関われるようになった。

結婚の2カ月後

 千枚田がある南志見(なじみ)地区で生まれ育った堂下さんは、5年前に金沢市からふるさとにUターンした。イラストレーターやライターをしながら、愛耕会ではパンフレットをつくったりSNSで発信したりもしてきた。23年11月、愛耕会メンバーの白尾さんと結婚した。

 その2カ月後に、能登半島地…

共有