将棋棋士七段・佐藤和俊「僕の忘れもの」~純情順位戦~
将棋の第83期名人戦・順位戦(朝日新聞社、毎日新聞社主催)が今月11日に閉幕した。昨年6月から5階級で137人が戦い、名人挑戦者(永瀬拓矢九段)と11人の昇級者が生まれた。黄金の切符を手にしたのは10~30代の実力者ばかりだが、たった一人だけ40代の棋士がいる。C級1組からB級2組に進む佐藤和俊七段(46)。棋士養成機関「奨励会」在籍時、年齢制限による強制退会が迫る25歳で夢を手にした晩学の棋士は「忘れものがある」と語る。
勝てなくてもいい。
燃え尽きることさえできれば。
佐藤和俊は願った。
競技場のトラックの上で。
1996年、春。千葉県総体陸上男子4×100メートルリレー準決勝の号砲が鳴った。第2走者の佐藤は1走の声を聞いてスプリントを開始する。ところが、テイクオーバーゾーン内でバトンを握れず。継走不能。両脚の回転を止める。戦いは始まる前に終わった。
短距離走者として最後のレースだった。100メートルの自己ベストは11秒32。決勝に進んでも頂点を極める力はないと4人とも分かっていた。だからこそ燃え尽きて終わりたかった。でも走れなかった。
「今でも心残りではあります。陸上って番狂わせのない世界で、上で争えるのは一握りです。自分の記録との闘いだからこそ、あの時は……」
進学校の渋谷教育学園幕張高校。3年の夏を前に引退した他の部員は受験勉強を本格化させたが、佐藤は本当の夢へと疾走を続けた。当時、棋士養成機関「奨励会」の三段。トラックではなく盤上が真の戦いの舞台だった。
「陸上にはどう足搔(あが)いても勝てない人がいる。でも将棋なら……。劇的には能力を伸ばしにくいことは似ていますけど。奨励会員で部活をやるなんてどうかしてるかもしれないけど、陸上をやりたかったんです」
千葉県松戸市の生まれ。本気で将棋に取り組み始めたのは小学4年の時だった。後に棋士となる者としては晩学だったが、天性の才能と圧倒的没入は類いまれな成長速度を生んだ。6年時には奨励会に入っていた。
17歳、高校2年で棋士へのラストステップとなる三段に上がった。有望なスピードだったが、最終関門の三段リーグで苦しみ抜いた。最初の4年8期は全て負け越し。やがて26歳の年齢制限を意識しながら生きるようになった。例会(対局日)の朝、将棋会館に向かう電車の中で勝負の重圧と将来への不安にいつも襲われた。ついに四段昇段を果たしたのは25歳の時だった。
「私はずっと突き詰めたわけ…