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文化部に届いた柳沼さんの原稿

 4月初め、朝日新聞東京本社の文化部に1通の封書が届いた。

 封筒を開くと、400字詰めの原稿用紙10枚に、エッセーが綴(つづ)られていた。

 タイトルは「80年前の私」。

 空襲で焼け野原になった街。当時13歳だった「私」は、たどりついた家で、真っ黒に焼けた家族の遺体と対面する……。太平洋戦争末期の1945年6月20日、約2千人の犠牲者を出した静岡大空襲で、母と3人のきょうだいを失った女性の、戦争体験談だった。

 ボールペンで書かれた直筆原稿の、焼け跡の色や遺体の手ざわりを細かに描写した筆致から、80年前の光景が目の前に浮かび上がってくるような感覚を覚えた。重傷を負いながら生き残った父を必死に介抱し、希望を見いだした過程も鮮やかに描かれていた。

 一方で、文面には、なぜこのエッセーを書いたのかも、紙面への掲載希望も、取材依頼もなかった。

 封筒裏の差出人は「柳沼静子 93歳」とあった。調べてみたが、空襲体験が過去に記事になった形跡はない。

 どんな人なのか。「ぜひ、詳しくお話を聞かせてください」。手紙を投函(とうかん)した。

 数日後。携帯電話に着信があった。

 「そんな文章を送っていたなんて。お手紙をもらって初めて知りました」

 電話口でそう話したのは、柳沼さんの四女、関口久美子さん(66)だった。「母もぜひお話ししたいと言っています」

 5月半ばの昼下がり。東急池上線に乗って、大田区の自宅を訪ねた。

     ◇

 「取材なんて思ってもみなかったですよ」。出迎えた柳沼さんは、そう語った。

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取材に答える柳沼静子さん=2025年6月10日午後2時6分、東京都大田区、友永翔大撮影

 数年ほど前から週2回、デイサービスを利用する傍ら、趣味の着物のリフォームやちぎり絵をしながら、穏やかな日々を過ごしている。

 最近は、耳が遠くなったといい、取材は、私が電子メモパッドで質問を手書きし、答えてもらった。

 エッセーを書こうと思い立った日――。それは、戦後80年をうたったニュースや特集が、テレビ画面のあちこちで踊り始めた3月のとある日だったと語る。

 「今はまだ書ける。でも明日…

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