どこから手をつけたらいいかわからなかった。
1945年8月6日、桶田(旧姓・佐藤)岩男さん(95)=函館市=は、被爆直後の広島市に救護に入った。
人々はやけどを負い、ある人は爆風で右足を引きちぎられていた。ある人はネクタイのように体のまん中に皮膚が垂れ下がっていた。
当時16歳。20キロほど離れた賀茂海軍衛生学校(現・東広島市)で、軍の医療や看護を学んでいた。原爆投下時刻には紫まじるキノコ雲を見た。
「新型爆弾が落とされた」。昼ごろには、救護に向かうよう命令が出た。トラック3台に医薬品などをつめこみ、出発した。
明るいうちに広島市内に着いた記憶がある。ほろのかけられたトラックから降りて目にしたのは、見渡す限りの焼土。ドームがひとつ、どこかの煙突がひとつ、あとはいくつかの建物の残骸があるだけだった。
遠く離れた北の大地でも、消せない被爆の記憶。高齢化を理由に、北海道被爆者協会が来春解散します。その前に、道内の被爆者に体験を聞きました。
- 逃げて逃げて北海道へ 被爆者支えた「もう一つの原爆ドーム」譲渡へ
■地獄絵以上の…