杜の都は1945年7月10日未明、火の海に包まれた。
約1400人が犠牲になった仙台空襲。太平洋に浮かぶマリアナ諸島テニアンを出撃した123機の米爆撃機B29が、2700キロ北の仙台に飛来し、911トンの焼夷(しょうい)弾を投下。市街地500ヘクタールを焼き尽くした。
戦争末期、東北各地が空から襲われた。日本の中枢から離れた北の地方都市が、なぜ狙われたのか。公開されている米軍資料などをもとに、攻撃した側の意図を探る。
市内の写真館の跡取り息子だった阿部邦彦さん(91)は、当時中学1年生。自宅はあっという間に火炎に囲まれ、庭の防空壕(ごう)に逃げ込んだ。
入り口に火がつき、煙が満ちてくる。はいつくばり、靴下を泥水に浸して、口と鼻に当てた。暗闇で皆が「ううーん」とうなり始める。阿部さんも気を失った。
明け方、ようやく外へ出た。母親が抱いていた乳飲み子の弟と、近所の人4、5人が息をしていない。家も街もなくなっていた。
多くの市民が予期しない悲劇だった。
地方都市の仙台が、なぜ無差別に
3月10日の東京大空襲を皮…