知覧特攻平和会館の八巻聡学芸員=2025年5月30日、鹿児島県南九州市知覧町郡、榎本瑞希撮影

 新聞は特攻をどう報じたのか。知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市知覧町)の八巻聡学芸員に、1945年の朝日新聞紙面を読み解いてもらった。

 ――当時の取材の様子は。

 特攻隊員は出撃まで、空襲を避けるため基地から離れた松林のなかに建てられた兵舎で寝起きしていました。その一角に、新聞記者など報道班員が宿泊していた兵舎もあったことが分かっています。戦時中に発行された新聞や雑誌を見ると陸軍の報道班員のほか、同盟通信社ほか各社の記者が並んでいたものと思われます。

特攻隊員が出撃までの数日間を過ごした三角兵舎を復元したもの=5月30日、鹿児島県南九州市知覧町

 戦後80年。当時の朝日新聞は戦争をどう報じてきたのか。紙面とともに振り返り、明日への学びとしたい。

1945年5月26日の朝日新聞。写真説明には「お伴のおばこ人形と敵艦轟沈の夢路たどる振武隊神鷲たち」とある。記事本文によると、特攻前夜の取材という

 陸軍報道班員だった高木俊朗氏の回顧録などによると、記者たちは知覧飛行場で比較的自由に取材をしていたようです。出撃の日を尋ね、近ければ「今の心境は」「一筆書いてくれないか」などと質問。隊員から家族への手紙を預かって、こっそり普通郵便で送るといったこともしていたようです。

 当時の朝日新聞の紙面を見ていると、出撃のおおむね数日後には特攻隊員どうしの会話や記者に話した内容が掲載されていて、速報していたことが分かります。会話の内容も、会館に残された資料などと比較して違和感がありません。本人が言った通りに書いていたのではないかと思います。

 会館は、隊員の遺族・関係者から提供していただいた遺品を展示している施設です。遺族のなかには、出撃を伝える新聞記事を遺品として残していた家族もいました。

1945年5月19日の朝日新聞。写真説明には「『お兄さま、では』と武運を祈りながら別れをつげる妹と母、勇士は『あれですよ、僕の愛機は』と指さす、出陣の朝のひととき」とある(一部略)
1945年5月20日の朝日新聞。見出しに「特攻隊見送る大和撫子(なでしこ)」とある

 ――沖縄の戦況は悪化していきます。

 沖縄航空特攻作戦は当初米軍の沖縄上陸作戦が始まった時期に攻撃をかける計画でしたが、想定よりも米軍の上陸は早く行われました。沖縄の飛行場が米軍に奪われ、本土への空襲の拠点になっていきます。

 5月下旬、特攻戦死者が218人と急増します。5月24日に熊本県の健軍飛行場から「義烈空挺(くうてい)隊」が出撃したのです。米軍が占領した沖縄の飛行場に飛行機ごとに強行着陸し、敵機や施設を破壊するという特殊任務を負ったパラシュート部隊でした。

 新聞紙面は6月5日、1面トップで苦戦を認めています。「沖縄戦局いまや重要段階 全線に亙つて苦戦 彼我戦力の差漸く顕著」。その後、本土決戦に備えよ、という記事が出てきますが、その際に特攻隊が引き合いに出されます。「敵来らば『一億特攻』で追落さう」(6月14日)「本土決戦必ず勝つ 特攻隊に学ぶ」(7月24日)。

 ――紙面には「荒鷲」や「神鷲」といった単語が登場し、勇ましいイメージを与えます。

 第2次世界大戦は、飛行機が主力となった戦争でした。今でいうミサイルのような、最新兵器の位置づけです。それに乗るパイロットはエリートであり、国民のあこがれでした。「鷲」の初出ははっきりしませんが、戦闘機のパイロットに強い鳥であるワシのイメージを重ねてそう呼び習わしていました。

 ――特攻隊員を見送った記者が、特攻隊員が最後に食べた食事がおにぎり二つだったことを紹介し、特攻隊員も頑張っているのだから「私は食物の不平はいへた義理ではない」と自分を鼓舞するような記者ルポ(5月3日)もあります。

 戦争は始まったら、「負ける」と言ったら終わり。報道の目的も戦争の遂行に絞られてきてしまいます。このころから中小都市への空襲が激化し、食糧難も激しくなります。空襲の被害を防ぐためにどうしたらいいか、コメの代わりに食べられるものはないか。こうした「お役立ち情報」を伝えるか、戦意を鼓舞する特攻隊員の物語を書くか。記者にはそのような選択肢しかなかったのではないでしょうか。

1945年4月19日の朝日新聞1面。大本営発表で特攻などの戦果を載せた

 ――一方で、特攻作戦の不利な点については報じられていません。

 陸軍の飛行隊が特攻をするのはそもそも無理がありました。地上作戦を空から援護するための部隊なので、もともと目標物のない海の上を飛ぶ洋上飛行の訓練を受けてはいませんでした。敵艦の甲板を貫通する硬くて重い爆弾を抱えて飛ぶ仕様にもなっていませんでした。そうした状況から内部でも反対意見がありましたが、他に手がなく特攻をはじめた経緯があります。

 ――特攻が敵艦に突入した割合は1割程度と言われています。

 このようなことは、特攻を伝える記事で触れられてはいません。記者に知識がなかったのでしょうか。仮にあったとしても、この局面で作戦上の難点を書くことはできなかったでしょう。

 現在開催中の企画展では、特攻隊員の身の回りの世話をした地元の女学生「なでしこ隊」の女性の証言映像を上映しています。

 「この人たちがいる限りは負けない」。女性は当時の心境をそのように振り返っています。特攻隊はそのような期待を背負った存在でした。

沖縄航空特攻作戦とは

《沖縄航空特攻作戦》 陸海軍の航空隊が、沖縄に襲来した米軍の艦船に攻撃を行った。重さ250キロの爆弾を装着した航空機で敵の艦船に体当たりして沈める作戦だった。敵艦に到達したのは1割ほどと言われる。

 知覧のほか宮崎県の都城からも出撃し、九州から出撃した特攻隊は振武隊と呼ばれた。沖縄戦における陸軍の特攻作戦では1036人の隊員が亡くなっている。知覧からは4月1日~6月11日まで行われ439人が亡くなった。知覧特攻平和会館では全員の顔写真が展示されている。

三角屋根の兵舎があった場所には、新聞記者らの拠点も記録されている=2025年5月30日、鹿児島県南九州市知覧町西元、榎本瑞希撮影
特攻隊員の兵舎は空襲を避けるため、基地から少し離れた松林のなかに作られた。現在は碑や階段が整備されている=2025年5月30日午後5時41分、鹿児島県南九州市知覧町西元、榎本瑞希撮影

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