Smiley face
大関昇進を決め、すでに大関となっていた若貴兄弟と写真に納まる貴ノ浪(中央)。「二子山部屋」と掲げられた看板の左奥の呼び鈴を鳴らしてしまい、親方に叱られた=1994年1月26日、東京都中野区

 いまや笑い話だが、当時は泣くに泣けなかった昔話をいくつか。

 僕が初めて相撲担当になったのは、入社7年目の2000年。当時の番付最高位は曙、貴乃花、武蔵丸の3横綱だった。

 相撲記者の仕事は、偶数月末の「番付発表」から始まる。発表の朝、横綱や新三役、注目力士らの会見があり、今場所の抱負などを取材。翌日から朝稽古に通い、2週間後の初日に備える。

 朝稽古で力士の調子を取材し、稽古後のクールダウン中に雑談を交わして記事に書けそうなエピソードを探る。時に、一緒にちゃんこを食べようと誘われることもある。

 新聞記者の現場リーダーを「キャップ」という。慣れてくれば、朝稽古の取材先は自分で決めるのだが、最初は右も左も分からない。キャップが取材先を指示する。

 僕が初めて相撲担当になった00年。いま千葉・銚子支局長を務めている根岸敦生記者が大相撲キャップだった。

 相撲取材の初日。根岸さんの指示は「貴乃花を見てこい」。東京・中野にあった二子山部屋に向かった。

 相撲部屋は親方の個人財産だ…

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