右手の薬指と小指がほとんどない。残った指も一部は変形したままだ。
東京都世田谷区の持田信重さん(83)は80年間、この手で生きてきた。
一夜で約10万人が犠牲になった、1945年3月10日の東京大空襲。3歳だった持田さんは、両親と生後約3カ月だった妹の絹代さんと、墨田区で暮らしていた。
「空襲の記憶はほとんどありませんが、電柱が真っ赤に燃えていたのを覚えています」
両親から聞いた話では、深夜に空襲警報が鳴った。自警団員だった父は、母に「逃げろ」と言い残し、外に出た。
母は持田さんと絹代さんをおんぶして、近くの学校へ走った。父と合流し、持田さんは父に背負われた。
米軍は現在の墨田、江東、台東各区を中心に、焼夷(しょうい)弾33万発を投下。持田さん一家が避難した校舎も、炎に包まれ、逃げ惑った父は気絶した。
夜中、父は持田さんの「いたい、あつい」という声で目を覚ました。
3歳の小さな手が、溶けていた。
母の背中にいた絹代さんは…