1970年の大阪万博は北摂地域に何を残したのか。大阪大総合学術博物館の元館長で、大阪万博の特別展などを手がけた橋爪節也・大阪大名誉教授(日本美術史)に聞いた。
――70年万博の思い出は。
当時は大阪市の中学1年生でした。初めて入った三菱未来館のパビリオンに衝撃を受けました。荘厳な音楽の中、動く歩道に乗って進んでいくと、目の前の立体スクリーンに火山の爆発や台風の大波が映し出される。映画「ゴジラ」シリーズを手がけた東宝のスタッフが協力したという映像と音楽に圧倒されました。
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――強烈だったのですね。
70年万博は「映像と音響の博覧会」とも言われ、ほかのパビリオンでも映像が流れました。あのような表現世界は私だけではなく多くの日本人にとって初体験だったと思います。閉幕までに親や友達と一緒に13回行きました。
中学生の私にとって、万博はテーマパーク、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンのような場所でした。前衛的な芸術、斬新な建築など、あらゆるものが自分の中に一気にドカーッと入ってきた。これが原体験となって、今の専門につながったと思います。
――2025年万博の感想は。
まだ1回しか行っていないし、それほどパビリオンを回ったわけではありませんが、パビリオンで放映される映像は70年万博よりもかなり進んでいる。ただ、今は映画やゲームで迫力ある映像が見られる時代です。来場者も慣れているでしょう。本当の美術品が見られるイタリア館が人気なのは、そういう理由もあるのではないでしょうか。
――70年万博が北摂地域に残した「レガシー」は。
大きなレガシーの一つが、インフラ事業だと思っています。万博開催にあわせ、吹田を起点に中国自動車道が整備された。会場への鉄道のアクセス路線として北大阪急行も開業しました。万博を彩ったパビリオンなどの建築物はほとんどが取り壊されてしまいましたが、道路や鉄道は今も存在感を示しています。
――ソフト面でのレガシーはありますか。
70年万博の跡地に計画された「万博記念公園の森」に関わった吉村元男さんという環境デザイナーがいます。吉村さんは、ニュータウンについて「人工の都市を『故郷』と思うことができるには文化の力が必要」と指摘しています。「生きがい」だけでなく、ここで人生を全うするという「死にがい」とでも言うべき思いが芽生えるかどうか、それが都市のアイデンティティーを生み出すと。そういう意味で、ニュータウンの住民の中にある万博を開催したという誇りは、地元ならではのアイデンティティーであり、レガシーと言えるでしょう。
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