80年前の1945年8月10日、日本政府はポツダム宣言の受諾を連合国に通告すると同時に、短波のモールス通信と海外放送を通じて通告文書を海外に流しました。防衛研究所戦史研究センターの藤井元博主任研究官は、当時の中国は国民党と共産党の対立や米ソとの関係など複雑な事情を抱えていたと指摘します。そのうえで「終戦時の中国戦線の複雑な展開が、戦後中国での内戦勃発や日本人の早期引き揚げに直接影響した」と語ります。
――大戦末期に日本軍が中国大陸で「一号作戦」、いわゆる「大陸打通作戦」を実施しました。
37年の日中戦争勃発以来、日本は中国大陸の沿岸部や華北一帯、華中内陸部と広大な領域を支配していました。
一号作戦は、43年11月に日本の統治下にあった台湾・新竹が空襲を受けたことが契機になりました。新竹空襲は、米国がインドを通じて中国に配備した航空部隊が実施し、日本は中国大陸の制空権を徐々に失い始めました。
大本営は、中国の連合国軍飛行場を破壊し、南西諸島などの防衛を固めるため、大陸を縦断してインドシナまで占領地をつなぐ一号作戦を命じました。現地の支那派遣軍は44年中に目標をほぼ達成しましたが、大量の資源を消耗したうえ、飛行場が奥地に残るなど戦果自体は限定的でした。
――蔣介石の国民党軍はどう対応しましたか。
一号作戦の最中だった44年7月、日本軍はインパール作戦に失敗します。「援蔣ルート」にあたる北部の国境地帯でも敗退しつつありました。44年末からインド経由の支援が激増し、国民党軍の強化が進んだことで、米軍と蔣介石は反攻作戦を準備するに至ります。
一方、米軍との決戦に備えたい日本側は、一号作戦で自ら広げた戦線を縮小し、沿岸の防衛に徹しはじめました。国民党軍は45年春に広東省沿岸部へ攻勢に出ましたが、日本軍の反撃もあって達成できませんでした。
【連載】読み解く 世界の安保危機
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