全国制覇した広島商の元エース、曽根弘信さん=2025年5月24日、千葉県浦安市、稲田信司撮影

第107回全国高校野球選手権広島大会が5日開幕する。今夏は原爆投下から80年の節目にあたる。広島勢として戦後初めて全国を制した広島商の元球児が、今の球児に向けて、被爆の記憶、復興への思い、そして平和への願いを語った。

 甲子園球場での決勝で優勝投手となった、当時2年生エースの曽根弘信さん(85)。1945年8月6日、爆心地から約6キロ離れた安芸郡船越町(現・広島市安芸区)の自宅にいた。上空を見上げると、B29が飛んできた。幼稚園に向かう矢先だったが、妹を抱えた母親から家に戻るよう促された。

 「ピカッと光ったので庭の防空壕(ごう)に急いで3人で入ったとたん、ドーンと爆発音が聞こえた。まさにピカドン。周りはシーンと静まり返っていた」

 午後、爆心地近くから近所の男性が帰ってきた。「半袖からのぞく腕は焼けただれ、皮膚がズルッとむけてしまいそうだった」。旧陸軍被服支廠(ししょう)で働いていた父親は遺体の焼却作業に従事し、帰宅したのは被爆から3日後だった。「黒い雨」が降ったのを覚えている。

 戦後、楽しみは野球だった。「バットの芯に当たったときの感触、自分が狙ったところに球を投げ入れる感覚。こんなにおもしろいものがあるのか」。曽根さんは中学時代、広陵出身のコーチに投球術を学び、広島商野球部をめざした。入部テストで、後にプロ野球界を代表する大打者となる張本勲さんの長打力に驚嘆したのが忘れられないという。

 厳しい練習には定評があったが、選手の絆は強かった。「体にケロイドが残る人もいたが、だれも触れない。痛みがわかるから。被爆は禁句だった」

 被爆から12年が過ぎた57年の第39回大会。広島商は予選決勝を接戦で勝ち上がり、甲子園に。育英(兵庫)との初戦はリードを許しながらも延長に持ち込み、スクイズで逆転勝利。勢いに乗って決勝に駆け上がり、法政二(神奈川)を3―1で振り切って優勝した。

 胃がん闘病中だった父親は、曽根さんの力投を応援席で見届けた。試合後、スタンドに駆け寄りフェンス越しに握手をした。翌年、父親は59歳で亡くなった。

 決勝戦の2日後、広島駅は黒山の人だかり。「高さ5、6メートルもあるのぼりが目に入った。私の名前もあった。気恥ずかしかった」と、曽根さんは振り返る。優勝旗を持ち帰った選手たちはオープンカーに乗り、母校までパレードした。

 「原爆で広島はひどい目に遭った。貧しい生活を強いられるなか、(優勝が)ひとつの喜びだったのではないか。日本一になったのだと」

 曽根さんは慶応大をへて、東芝の野球部に入ったが1年目にひじを故障し、中学以来11年の野球人生に区切りをつけた。以後、東南アジアや中東への火力発電のプラント輸出に携わった。

 今の球児たちにまず、こう伝えたいという。「練習に真摯(しんし)に向き合ってチーム力を高める」。この姿勢があれば、野球を離れても生きる力が備わり、困難を打開できると考えているからだ。

 次に「被爆の恐怖と悲惨さは筆舌に尽くせない。地球上に二度と原水爆が落とされてはならない」。若くして亡くなった高校野球の仲間のためにも、そう強く願っているという。

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